母親の手料理について

 最近の状況から

数日前、食卓におにぎりが並んだ。

しかも、塩もつけていない白米を丸めて海苔で巻いたというシンプルさだ。

正直、それを見て食べられないと思ってしまった。

三角形に握られたものでもなく、俵形でもない。

どうやって作ったのか。初めて子どもに作ってもらったような出来で、巻いた海苔の外側に米粒がいくつも付いている。

例えば、白米とミックスベジタブルでチャーハンを作ることもできるし、レトルトカレーで食べてもいい。

逆にいじらない方が、ずっと後処理しやすいはずなのに、「何か自分がしないといけない」という母親のこだわりだけを妙に感じてしまった。

そして昨晩は、皿にぽつんとレトルトのハンバーグが乗っていた。

もちろん、すぐに使えるカット野菜とカットされたトマトも添えられてはいたけれど。

カットされたトマトも外側の傷んだ部分を取り除かないでただ切ったから、妻の皿には生育段階でついたキズのあるトマトが見える形で置かれている。

ひと手間掛けて取り除くこともできないほど、嫌々料理しているのだろうか。

「味噌汁、ちょっと薄味になった!」

夕飯、両親が食べる時間とこみちたち夫婦では時間差がある。

昔は四人同時に食卓を囲んでいたが、仕事で遅くなった妻がいて、それを待ち切れない父親が先に食べるようになって、自然と二部制になった。

先に食べて薄いと思った時に、後から食べる人たちには薄味ではなく、納得した味で提供したいとは思ってくれない。

「ちょっと薄味になった」とは、その失敗を「そうでもないよ」という慰め待ちにしているように思える。

料理もセンスだから、作るのが上手い人とそうでもない人がいるのは仕方ないことだ。

こみちも料理を妻に作って、「こみちは不器用だね」と言われて来た。

でも絵と同じで、何度も何度も繰り返したら、人並みくらいにはなれたと思うし、上手いとは言えないまでも、作るのが好きとは言える。

だからこそ余計に感じるのは、最近の母親の手料理に「美味しく食べて欲しい」という気持ちが全く感じられない。

むしろ、大変な役回りを私が担っていて、でも根を上げずに頑張り続ける自分を誇らしくすら感じているようだ。

たとえ白米を団子にしたおにぎりだとしても。

多分、市販のお稲荷さんの皮を使って、残りご飯を詰めたかったのだろう。

ボールに酢飯を作り、あとは皮に小さく丸めたご飯を入れればできる。

仕事から帰った母親がそれを一人でして、視線の先にはリビングで居眠りとしている父親がテレビをつけっぱなしにしていたら、段々と作るのが苦でしかないだろう。

大好きな人に食べて欲しいという気持ちもなく、義務的に作るしかない立場が、結果的に何とも言えないおにぎりになってしまった。

「手伝って!」

ではなく、「一緒にして! 食べるなら」と言えばいい。

仮に父親が不満そうな態度を示すなら、「じゃ食べない?」と言えばいい。

冷たいのではなく、そうしないと母親の作る料理は弁当を買って無理やり皿に盛り直すようなことになる。

じゃそのまま弁当でいいんじゃないか。

でも、母親のこだわりが、弁当をさらにあれこれといじって、余計に寂しくなるような出来にしてしまう。

怒り出す父親の態度に母親は本音が言えないというだけで、今の流れになっているなら、もうそろそろ言っていいんじゃないかとも思う。

「私が先に施設に入ったら、どうするの?」と。

行き詰まった感じがそこまで来ている。

でも父親は相変わらずテレビを見ているしかしないし、自分から何か動き出すことはできない。