「不条理」って何なんでしょうねって話

「 不条理」とは

不条理とは、世の道理に合わないこと。

道理とは、人としての正しい道や思考などの筋が通っていること。

「親との同居生活」における「不条理」とは?

例えば、知り合いやルーメイトのような間柄で共同生活をしていた場合、冷蔵庫に入れてあった食材が誰かに食べられていたとしましょう。

「誰が悪いのか?」

冷蔵庫に入れてある食材は、入れた人の所有であって、他人が無許可でその所有を奪うことは許されない。

という考え方は道理にあっているだろうか。

仮にそれが道理として認められたとして、ではこんなケースはどうなるだろうか。

冷蔵庫に保存するべき食材を購入し、冷蔵庫を開けてみると、そこには本来なら冷蔵保存されるべきではない食材が大量に入っていた。

さて、どうすることが道理だろうか。

「確認する」とか「相談する」ということが最も穏便な解決策だろう。

どちらがどう正しいのかではなく、それぞれの立場や状況を共有させることで、例えば正しい選択肢でなかったとしても、相互に認めあえているからだ。

その意味では、「言葉」はとても大切で、使う言葉や並べ方次第で、印象も変われば解決できるかも決まってしまう。

しかし、時にはタイミングとして話し合えないこともあって、互いに状況を共有できないことも起こる。

そんな時に、先の例のようなケースで、「それなら分かる!」と支持される解決策が道理に合った答えと言えるだろう。

こみちだったら、既に冷蔵庫にあった他人の食材が冷蔵に削ぐわなものだったとしても、自身の食材を冷蔵庫には入れないと思う。

そのことで、自身の食材が傷んでしまったとしても、その損失は自身で被ることを選ぶ。

選択肢があるとするなら、今回ではなく、次回のために、「取り出してもいい食材」には何か印を付けるような提案をするかもしれない。

「取り出してもいいのかなぁと思ったけど、何か事情があるのかもしれないと思ってそのままにしておいたんだ。でも、入れたいものが入れられなくて、だから次回からは出してもいいという時に何か印を付けるのはどうだろう?」と。

そもそも、これが一人暮らしであったなら、そんなことは起こらない。

共同生活は、小さな社会生活の場でもあるから、ルールとか思いやりが欠かせない。

言い換えると「正義」とか「正しい」と言う客観的評価だけでは判断できないことも出て来る。

「入れるべきではないもの」の扱い方

例えば、ある人にとって、一般的には冷蔵庫に入れない食材を冷蔵する必要性があったとしよう。

もちろん、言葉を正しく使って、事前に意図や状況を告知し、共同生活を行う他人に対して理解や協力を求めていたら、問題の解決や扱い方は大きく変わる。

そんな根回しや準備段階を行わずに、現時点で冷蔵庫に入っている本来なら冷蔵しなくてもいい食材と、冷蔵庫に保存したい食材の優先順位を決めるのだから、そこに大きな無理があることは当然だ。

人によっては「先に使っている」ということに正当性を置くだろうし、また別の人は「冷蔵されるべきもの」を優先すると考える。

例えば、民法という民事間のトラブルを解決する法律によれば、自身が経営する店の駐車場に、全く知らない人の車が放置さえていて、それをどこか別の場所に移動することができるのかという問題が起こる。

自分の土地を自分が好きに使うのは当たり前。だから「他人の車を敷地外に出すことだってできる!」と言う意見もできそうだ。

しかし、車の場合、その物自体に所有者がいて、所有者はその物についての処分を一任された存在と考える。

つまり、土地の所有者は「土地」そのものを自由に使えるとしても、放置された「車」の処分を無許可では行えない。

できるのは、その行為で受けた損害を賠償金として受け取ることになる。

そんなルールが良いか悪いかではなく、もちろん道理に合っているかでもなく、法律は社会としての混乱を軽減するような方法で設定されることもある。

冷蔵庫の話に戻ろう。

不条理なことか否かを考える時に、既に起こった目の前の状況で判断するのはとても厄介だ。

冷蔵庫の件で言えば、先に置かれていた食材が本当にそうするしかないのかという疑問がある。

しかしその判断を一般的な考えだけで決めてしまうと、特殊な事情でそうしている場合に、無許可で冷蔵庫から取り出されてしまうことが起きてしまう。

「冷やしておきたかったのに!」

「聞いていないし、知らなかったし」

こうなるのは、事前に告知し許可を得ていないことが指摘された場合だ。

でもこみちがそうしないで、自身の冷蔵庫に入れたい食材を常温に保蔵するのは、たとえ自身の食材がダメになったとしても、先に入れた他人の意図や目的を尊重したいからだ。

もしかすると、ルールを提案するかもしれないし、ルールを共有できないとしたら、共同生活そのものを考え直すかもしれない。

道理が人の「正しい道」とするなら、そもそも「正しさ」をどこに置くのかがポイントで、目の前に起こった事情でも、社会経験や立場によっても感じ方が異なる。

「これが正しいんだ!」と誰かが言っても、別の人にはそう思わないことも出て来る。

関係を壊すことで解決すると、別の部分で良いところも全て失ってしまう。

だからこそ、どう思い、それをどう共有するのかがとても大切だろう。

自己主張はするべきだと思う。

しかし、一方的な方法で自己都合に解釈するべきではない。

言葉を正しく使って、順番とかやり方をしっかりと考えることだ。

時には、今起こっている問題を一度無視して、今後に向けた解決策を練ってみるということも必要になる。

相互理解がしっかりとできれば、解決が難しいことでも、今後の方針に活かせることがある。

しかし、相互理解も難しく、中心となって問題を把握する人がいないと、些細なことでも解決は困難で、また次回も同じようなことが起こる。

親と同居していると、親の立場では「やむを得ない」と思うことが、こみちにはやり方次第だっただろうと思えたりする。

迷惑をかけても、「家族だから」で全て正当化すると、そうしないように準備している側だけが損をする。

「これを冷蔵庫に入れる必要あるの?」「いつまで入れるの?」

そんなことが起こる。

整理整頓が苦手な母親なので、冷蔵庫の3割くらいがそんな食材で占領されている。

もう使うことなどないようなものが、半年以上も放置されたままだ。

一緒に時間を合わせて、捨てるか捨てないかを決めなければ、もう解決することはない。

何で何もしていない自分が面倒見るのかと思ってしまうけれど、正しいか否かでは解決できない典型例だ。

上手く事情を説明できない相手なら、質問形式で気持ちや目的をこちらから理解していかないと、結局は何も解決しない。