「親だから…仲良くしたいんですよ」という話

昨晩のこと

午後8時を過ぎるまで待ってダイニングに様子を見に行くと、両親がまだ食事中でした。

作ってくれたのは焼そばで、市販の麺に肉とキャベツ、にんじんを加えてソースで味付けしたもの。

食事中の雰囲気が楽しくなくて、誕生日やクリスマスなど以外は四人で一緒に食べることもなくなっていて、その意味では珍しいことでした。

「いただきます」

そして、やけに真っ黒な焼そば。

一口食べて、思わず下を向いてしまいます。

隣に座った妻からも小さなため息。

今朝、朝食を作る予定で、ダイニングテーブルに座ってこの文章を書いているのですが、メニューを考えるために冷蔵庫を開いた時に気づきました。

焼そばの麺、一袋使っていなかったんです。

でもきっと、全部使って味付けしたんでしょう。

母親は昔から料理中に調味料を計ることもしなければ、味見もしないので、食卓の料理を食べてみないと美味いかどうかわかりません。

全く味がなかったり、濃すぎて手が出せなかったりと、そろそろ「味見をする」という目的を理解して欲しいのですが、いまだに変えられません。

白米をプラスして、交互に食べました。

「少し味が濃くなったみたい…」

母親自身も食べて気づいたようです。

この時、母親の頭の中で、「焼そばの味が思ったよりも濃かった」と考えていても、「作る時に味見しながらソースを加えないといけない」とは思っていません。

つまり、次もやっぱり同じ失敗を繰り返します。

なぜそうなってしまうのかというと、母はこの時期仕事が忙しくて、帰宅が1時間くらい足なります。

と言っても、夕方には帰れるはずですが、年齢や疲労もあって、帰宅して夕飯作りをテキパキと熟すのは難しいでしょう。

「焼そばを作る」ということなら、キャベツやにんじんを適当な大きさに切るだけでも役立つので、テレビをを見ている父親がしてもいいくらいです。

それこそ15分でも下ごしらえに協力すれば、あとは焼くだけなので。

正直、全部作ってもいいと思うんです。

美味いを求めているのではないし、焼そばだけでもできていれば、帰宅後も母親の負担は全く違うからです。

でも父親は夕方の昼寝というか夕寝をします。

午後3時くらいから、長いと7時くらいまで。

夜間頻尿の傾向があって、夜に眠れないからみたいですが、こみちはショートスリーパーで短い時は4時間寝ていないことも珍しくありません。

今朝に限っては晩御飯の後、すぐに横になったので、めちゃくちゃ寝てたという感じです。

健康は個人差も大きいと思うので比較はできませんが、父親に関して言えば、もっと家族(特に母親に対しては)に協力的であってもいいはずです。

与えられることに慣れすぎて、与えられていない不幸に気づいていなさ過ぎます。

近所でとても仲の良い夫婦がいて、でも奥さんの方が先に亡くなってしまったんです。

その後、その旦那さんは一人暮らしで、飼われていた犬を連れてよく散歩されている姿を見かけます。

どんな生活をされているのか詳しくは知りませんが、なんだかんだ言っても、配偶者を亡くしてしまうことは嬉しいことではありません。

とても仲睦まじいと評判だったくらいなので。

そんなことがあった時にも、「お父さんはお母さんに感謝しないと!」と言ったくらいです。

でも父親の頭ではそう感じていなくて、むしろ「お母さん、お父さんがいて感謝しなくちゃ」と言って欲しかったのでしょう。

家にずっと父親がいることで、安心して働き、家事ができることに母親が感謝するべきだと。

ちょっと考えると、分かりそうですが、父親はそんな風に考えてしまうようです。

食事後、自分の食器を洗わないことにも違和感がないし、むしろ洗ったら感謝されたいくらいです。

つまり、自分の価値がとても高くて、誰かが同じことをするよりも数倍数十倍も貴重で意味あるものだと感じているのです。

「してもらって当たり前」というスタンスの父親がいて、「味見をしない」という母親がいて、結果的に段々と食事時間が遅くなって、午後8時になってもまだ食事を終えられない状況になります。

寝る時間も遅くて、朝の目覚めも悪い。

日中の動きも冴えなくて、夕方疲れて帰宅する。

また食事を作ることが億劫になって、午後8時になっても食べられない。

そんな母親をじっと文句も言わないで待っていることに父親は寛大さを自身で感じていて、痺れを切らして降りて来たこみちたちと微妙な空気感の違いを感じる。

「(オレは文句も言わずに待っていたんだ!)」

「(違うでしょう。手伝ってあげなよ!)」

互いに無言でテーブルを囲む。

確かに母親の行動は、無駄が多い。

でも勤勉という意味では確かに頑張っている。

若い頃なら体力勝負でごり押しもいいけれど、少しずつ頭を使って効率とか見切りとか、今までとは違う視点を持つべき時期を迎えている。

でも母親は周りでどうアドバイスされても、変わることができない。

本来なら、父親が的確に言ってあげたらいい話。

それこそ料理を作れないなら、「今日はお茶漬けだけでいいよ。食べたいなら個人で作って貰えばいい」と。

体力的に辛いのに、目標は変えないから、思わず下を向いてしまうような焼そばになってしまう。

肉や野菜を入れて麺と炒めるだけの焼きそばが、食べられないほど下手になってしまう理由はそこにある。

母親の頭の中では、こみちが作ればいいと思っているだろう。

でもそれをしたら、もしもこの先母親に何かあったら、父親はどうやって生きていくのか。

今がどうにかなっても、自分で生きていくことに慣れていないと、その内父親だけになればご飯さえ炊かない食事をすることになる。

母親のように献身的に尽くす自信もこみちには無い。

だいたい、仕事もして家事もして、父親のことを常に面倒みて、母親の幸せって何だろう。

今、父親がトイレに起きて来た。

父親にすれば「トイレで長く寝られない」かもしれない。

でも、こみちを含めて世間では起きている人も沢山いるし、すでに働いている人だっている。

自分だけが寝られないのではない。

でも父親はいつも不遇な自分を不幸だと感じ、我慢していることに誇りを持っている。

こみちにすれば、そこでする我慢はいらない。

行動し現状を変えて欲しい。

でもそんな思いが一切伝わらない。

一年以上、朝食を作っているけれど、父親から「ありがとう」と言われた記憶がない。

なぜって、作ってもらうことが当たり前だというところに父親は立っている。

こみちに言わないとしても、母親には言って欲しいとは思うけれど、「言わなくても分かる」とか、「オレと暮らせているだけで幸せだろう」と勘違いしているのだろう。

4人で久しぶりの食卓だったけれど、我慢とか穏便という言葉では片付けらないくらい、両親との距離を感じるし、改めて何も変わっていないと再確認してしまう。

味付けは別として、焼そばを作るのにどれくらい時間が必要だったのか。

料理経験の少ない父親でも、一人でできるだろう。

でもそれをすることで、毎食作ってくれる人の大変さも知ることができる。

両親だから仲良くしたいけれど、優しい声を掛けられるような変化が見つからないんだよなぁ。