「自分を変える」には意識が必要!って話

 昨日のこと

妻の帰宅が間に合えば、こみち夫婦が晩御飯を食べるのは午後8時となっています。

両親のご飯は午後7時。

母親が主に晩御飯の準備をしてくれるのですが、凝った料理などしなくていいと伝えてあるので、何か一品料理を作ってくれれば十分ですし、言ってしまえばこみちが夫婦の分を作ってもいいとさえ思います。

大人四人がいると、好みも違えば、苦手な食材もあって、食べたいと思っても作れないことが多いのも理由です。

ところが、昨日は母親が夕方頃に帰宅。

汗を流そうとシャワーを浴びたのか、リビングにいる父親と大きな声で話たりしていたので、何となく帰って来たことが分かりました。

それから時間が経過し、午後7時過ぎに妻が帰宅。

妻が着替えをしている間に、使い終えた弁当箱を鞄から取り出して洗います。

コーヒーか、カフェオレ、どちらかを入れて着替えた妻に運ぶまでがこみちの日課にです。

父親はいつものように自室で仮眠。

母親もほとんど食事を作り終えていますが、時刻は午後7時を過ぎにいるので、予定よりも遅れていることになります。

作ってくれたのは、麻婆豆腐とサバ缶を皿に盛ったもの、きゅうりとカニカマで作った酢の物。

みなさんならどれくらいで作れるでしょうか。

こみちなら、1時間あればイケると思います。

つまり、午後7時に晩御飯を食べるなら、午後6時くらいに料理を始めたい。

と言うか、午後6時に始めてできる料理を作ればいいのです。

帰宅が早くて時間があるなら、その日はテーブルに腰を下ろして、午後6時までテレビを観ている父親と団らんしてもいいでしょう。

逆に時間がない時は、仕事帰りに弁当でも買って、簡単に済ませると言うこともあるでしょう。

しかし、母親の場合はそうなりません。

癖と言うかやり方の違いですが、同時並行で始めて時間が経過してもどれも最後まで終わっていないという感じになります。

料理を作り終えても、洗い終えた洗濯物が洗濯機に入ったままとか、仕事で使うバックが玄関に置いてあるとか、片付けながら他のことを始めて欲しいのに、なぜか洗面所の照明がついていたりと、母親が何かするといろんなものが中途半端になってしまい、周りも何もできなくて、「コレはどうするの?」と結果的に手伝うような感じになってしまいます。

「米研ぎまでしなくてもいい!」

時間がなくなって一人で抱え込む母親に、何度もそう告げて来たのですが、使命感なのか米研ぎを譲りません。

しかも米研ぎに長いと30分くらい要するのです。

理由は簡単で、また途中で別のことを始めるから。

どうしてこんなに効率的が悪いのかと思ってしまうほど、母親の家事に掛かる時間は長いと思います。

昨日、両親が食事を始めたのが、午後8時。

こみちたちは午後9時でした。

妻が帰宅して1時間以上待って、その間にオヤツとかも食べたりして、別に晩御飯を食べなくてもそのまま寝てもいいくらいで、ようやくリビングに降りて、麻婆豆腐たちを目にするのです。

もちろん父親はテレビ。

母親はなぜかダイニングテーブルの空いたスペースに自身のバックを置いて、中身まで広げています。

隣には麻婆豆腐の皿があるのに。

「遠慮しないで食べて。もう我々は終わったから」と。

1時間待っていたことも知らないような雰囲気で、食事を勧めて来ます。

オヤツも食べているので、妻はちょっと手をつけておしまい。

こみちは何度頼んでも中辛にはならない甘口の麻婆豆腐を食べました。

塩分によるむくみでも気にしてなのか、世間的にいう「優しい味」ばかりです。

食事後、家族分の食器やシンクなどを洗ったりして、午後10時前にこみちも自室に戻りました。

それを確認して、父親が日課にしている湯を沸かします。

だったら、母親の手伝いでもしてあげたらと思うのはこみちだけでしょうか。

でもそうしない理由も薄々分かっていて、母親と共同で作業するのは面倒だからです。

10個分を二人で担うではなく、せっかく二人ならと作業が15、20と増えて、結局終わる時間は変わりません。

かつて母親の遅さを見かねて、手を出した時も、いつの間にか姿が見えなくなって、こみち一人で作っていて、今度目にするともう一品を作り出していたんです。

「ちょっと、もう作らなくていいよ!」と。

何時までに終わらせるとか、今の作業があとどれくらい掛かるとか、時間に対する感覚がないので、母親イメージは一日中何かしている人になっています。

でも具体的に何が終わったのかを確認すると、何に時間を掛けたのかと聞いてみたくなることも多いくらいです。

ある意味、ふと両親がこれまで頑張って生きて来てんだなぁと思ったりします。