あるニュースで犯人が動機を語っていたことから思った話

 あるニュースをたまたまテレビで観ていて

あるニュースで逮捕された犯人が、事件の動機を「自分にはない未来があって羨ましかった」と語ったとされる。

幸せと不幸せは個人の感覚的な部分が大きい。

忙しくて大変でも、そこに生き甲斐を感じることができたら、人は不幸だとは思わないだろう。

でも不遇というものは、タイミングや環境の影響も大きくて、解決方法は個人では太刀打ちできないこともある。

例えば、親を介護するという時、一番大変なのは「お金では解決できない」ということだ。

月に50万円渡せばどうにかなるということではなく、老いて日常生活が困難になっていく親の生活を具体的にどう支えなければいけないのかで悩む。

人は三度食事をする。

それ以外にも、心地よい雰囲気が感じられる空間も欠かせない。

そう幸不幸の個人的な感覚の部分で、「不幸じゃない」と思ってもらうことが本人にしか分からないからだ。

「こんなにしてあげているのに…」

支える側にそんな感情が芽生えると、親の介護は一気に大変で、もちろん支えられる親もその環境を不幸に感じるだろう。

つまり、その環境という部分は、お金を渡すことだけでは解決できないのだ。

どうしてもできないことが増えて、例えば掃除や買い物、料理など、どこまでできるのが正解とは判断できないけれど、でも「これくらいは…」と思うラインがあって、でも本気で老いてしまうとどんどんできなくなって来る。

あれもこれもと支える側が思うと、24時間、365日、親の介護だけの人生になってしまう。

多分、自分のことなら諦められるのに、親や他人のことだから義務感だけ強くなって、どこまで達成しても、不満が残って最後は支える側の幸せさえ奪いかねない。

「もう未来などない」と。

「完璧」という自己満足をどこで捨てて、その中からまた生き甲斐を見つけられるかが大切で、それはつまり幸せは本人の感覚だから、不幸な部分ばかりを気にしても幸せにはなれないと気づけるかがポイントになる。

わずかな移動時間に、ふっと休憩している瞬間、幸せな気持ちになれる人が最後まで幸せでいられるからだ。

その意味で言えば、他人の幸福度合いなど、その人の大半も知らない他人が判断することはできないだろう。

笑顔で幸せそうに見えた人を、その一部だけで幸せだと判断するのは…。

99%我慢して頑張って、一瞬だけ笑っていられるその時を見て、幸せそうと決めてしまうべきではない。

程度は様々だけど、人は誰にも言えないような不満や不幸を抱えて生きている。

ある人は、そんな不幸に落ち込むだろうし、ある人はそれを改善しようと奮闘している。

どうすることが正解ではなくて、まずは無理をしないこと。

自分を壊してまで頑張る大切なことなどないから。

自己評価を上げすぎて、できない難題まで頑張る必要はない。

親の介護で言えば、「一緒にいる」ことで十分なのだ。

家の掃除が不十分だとしても、綺麗であることが大切なのではなくて、そこに幸せを感じられることがもっと重要になる。

「おはよう」「おやすみ」と言い合える間柄でいることが、やっぱり幸せな生活には不可欠だろう。