「無知」は罪か!?
幸福であることは、自身が思い描いたようになることだとするなら、目端が利きすぎてしまう人は思い通りにならない現実を知りやすいとも言える。
そんな風に考えて行くと、簡単に幸福を手に入れたいなら自身の目の前の視野を極限まで狭めてしまうことになるだろう。
一方で、無知とは何か。
ものを知らないということは分かる。
しかし、もっと言えば視野の狭いことを言う。
ん?
幸せと無知は対極にあるということ。
例えば、大学での学びを「社会に出たら何の役にもならない」と評する人がいたとしよう。
その人には、経験から得た結論で、他人が頭ごなしにその考えを責める必要性はない。
しかし、大学での学ぶによって、医師として社会に出て行く人や、新たな知識を得て社会に中でこれまでとは異なる視点で見られる人、さらには同級生という仲間を見つけて夢を叶えた人もいるはずだ。
つまり、社会に出て何の役にも立たないか否かは、卒業後の行動次第だ。
ここから学べるのは、長所として見るか、短所として見るかは、それを評する人次第だということ。
活かせないという人は、現状では何か足りないものがあって、それを自分の手で補うことができないとも言える。
だから、「不幸」と思うしかない。
一方で、現状に足りないものがあったとしても、順序立てて補えば、不満を解消できることを経験として知っていれば、不平不満を言ったとしても、結果的にはその状況から抜け出せる。
無知ではないからだ。
中高年になって気づく「健康」の意味
中高年がランニングに興味を持つキッカケに、健康診断での指摘がある。
こみちの場合は、健康不安ではなく、精神的な治療として運動を取り入れたからだ。
結論を言えば、チャレンジと達成を繰り返す経験は、精神の安定や回復に効果が期待できると思う。
少し話が外れてしまったが、健康は時間と同じでお金では買えない。
つまり、現在が最も良好で、少しでも早く対処するしか手に入れる方法がない。
だからこそ、健康不安になった中高年の中で、ランニングを始める人がいると思う。
健康を失うことが生きる上でどれだけの制限を伴うのかを知ると、日常生活の中で数キロを走ることが無駄ではなく、必要だと感じるだろう。
言い換えると、それで健康に近づけるなら、ありがたいことだ。
しかし、若い頃に健康を失う不安を感じてランニングに意識を向けた人は、中高年に比べて少ないのではないか。
なぜなら、若い頃は圧倒的に健康で、走ることで健康維持につながると聞いても、それほど触発されたりしないだろう。
少し強引な言い方をすると、若い頃は多少無知でもそもそもの健康があるから問題にならない。
しかし、中高年になって健康が少しずつ低下した時に、何も気づかないで、対処もしないで過ごしてしまうと、それによって未来は大きく変化してしまう。
無知であることで、不幸な状況に突き進んでしまう。
だから「走る」のか?
無知な人ほど、結論を急ぐ。
健康維持だから、走る。
ある一つの仮説や前提だけを信じて、他の状況を無視して結論を急いでしまう。
だから、どんな状況でも、行動がワンパターンになってしまう。
視野をあまりに狭くしてしまうと、確かに思うようになりやすく、それを幸福な状況だとするなら、その瞬間は幸福だろう。
しかし長い目で見ると、取り返しがつかない健康のような損失は、もう誰にも回復できないことだと気づく。
結局、不幸な状況も、生き方次第で変えられる部分がある。
少なくとも、こみちやこみちの家族を見て思うのは、不幸な状況を受け入れているし、変えようとできない背景がある。
それは、現状を理解する知識に乏しく、無知だからではないか。
このままではダメだと気づき、全てを解決しないまでも、現状から抜け出す行動に転じない限り、もう不幸だと思うことさえ無知故の感想になってしまう。
分かる人に言わせたら、「そりゃそうだろう」で一蹴される。
不幸な方に進んでおきながら、不幸だと不満を言っている訳だから、「無知って怖いな」と言われるのだろう。
変わりたい。抜け出したいと思っているのに、いつもその場をグルグルと回っている自分に、いい加減嫌気がさしてしまう。