久しぶりに父親のこと
母親が置き忘れたコップがあった。
気づかないまま自室に戻ってしまったようだ。
既に両親の食事が終わり、こみちたち夫婦がダイニングテーブルに座っていた。
そんな時、ダイニングテーブルの隅に置き忘れたコップをどう対処したらいいだろうか。
コップを追加で洗うことは、労働としてそう過酷なものではない。
こみちたちが食器を洗う時に、「忘れたのかなぁ?」で洗えば済むことだ。
しかし、高齢者との同居で問題が起こるのは、気づきと対応のスピード感だろう。
無頓着なこみちでも、今日はビンのリサイクル日だと思えば、裏庭に集めたビンを捨てなければとイメージする。
一回で行けないほど多いなら、二度三度に分けて運ぶか、今回は一回だけにして次回にという考え方もあるだろう。
いずれにしても、回収日に何をどうしなければいけないか位は、ずっと家にいる父親も意識して良さようだ。
ところが、誰かに「今日はビンを捨てる日だから、捨てて欲しい」と言われて、「嗚呼〜」と言いながらやっと行動できるのが父親だ。
つまり、何対してもそんな意識しかないから、ダイニングテーブルのコップも母親のものがこみちたちの邪魔になっているからどうにかしなければとはなれない。
どうやら「俺は関係ない」としか思わないようだ。
例えばこみちたちがわざとコップをそのままにしたらどうなるだろうか。
多分、朝までコップはそこにあるだろう。
こみちがそう思ってしまう背景には、父親が自己中な人だと認識していることも大きい。
例えば暑い日にアイスクリームを買って来て、「どうぞ、食べて!」と言ってこみちたちは手を洗ったとする。
すると父親は一人で箱を開けて、好きなアイスクリームを選んで食べていたりする。
もう慣れっ子だけど、みんなが揃うまで待つとか、アイスクリームを知らない母親に声を掛けるとか、本来するべき行動は他にあるだろう。
もちろん、食べるために買って来たのだから、喜んでくれたのは嬉しい。
しかし、先に言ったような行動はマナーとかではなく、次に繋げるために欠かせない行動なのだ。
「一緒になって、お母さんも食べよう!」と言って、それこそアイスクリームをキッカケに、みんなが集まれるチャンスにもなる。
父親が先に食べてしまい、残りを三人で食べる。
「お父さんも食べたの?」と母親が言い、父親は「食べた!」と先に済んだことをちょっと誇らしく答える。
そんなやり取りを見たこみち夫婦は、「…」となる。
前に進むチャンスを共有したくても、父親は先に終えたことを褒めて欲しいと思う。
だから、「いつもみんなよりも先に」という意識で行動する。
話を戻せば、置き忘れたコップというのは、タイミングが過ぎてしまったものだ。
何より今さら洗っても誰も褒めたりはしてくれない。
つまり、父親にとってメリットがなく、関わりたくないものになっている。
たとえそれが母親のもので、他の人が洗うことになったとしても…。
結果、父親は母親から与えられるチャンスと、こみちたちが気まぐれで買った土産をじっと待っているように見える。
可哀想な人と思われることにも特に恥じらいはないし、自分から他人の好みをリサーチして買って来たら食べようとも言えない。
父親と上手く暮らすには
そんな性格の父親だから、100の内、50を担ってもらうことはできない。
かと言って0にしては孤立してしまう。
だから協調性を求めるのではなく、父親ができることを1でも5でもしてもらうしかないだろう。
ある程度、姿が確認できるところにいて、「できた? ありがとう!」を繰り返すしかない。
こみちが夫婦での食事を終えて、その後にキッチンの掃除まで済ませるには、だいたい30分くらい掛かる。
洗い終え乾燥された食器を最後に食器棚に戻すまでが一連の作業だ。
その後、時には食器棚に戻しているタイミングで、父親がおもむろにリビングからキッチンに来て、やかんで湯を沸かすことがある。
あと3分もすれば、こみちはキッチンを立ち去るし、それからなら気を使わずにマイペースで湯を沸かせるだろうとこみちなら思う。
しかし、父親はこみちの後に続くことで、連帯感を感じたり、やる気を見せられるチャンスだと考えているようだ。
誰からも褒められないことを義務としてこなすことが、父親にとっては最も価値の薄いものになる。
そんな風に父親の思考パターンを理解すると、それでも一緒になって行動するか、少し放置して残りを処理するかが効率的だと考えてしまう。
コップを洗うこともしなかったし、洗ったからと言って「ありがとう」とも言わない。
理由は簡単で、父親のミスではないから。
まぁ、それはそれでいい。
もう特にこだわることではないと思うようになった。