やりたいことが多すぎてという話

 特に問題なければ3時半起床と決めている!?

いわゆる平日勤務のサラリーマン時代は、とにかく少しでも朝は寝ていたかった。

でもそれが働き方を変えてからは、自由になった分だけ、やりたいことも多くなった。

とは言え、一時期は本当にショートスリーパーで、3時間とか4時間でも活動できた。

今日も6時間ほどで、朝のコーヒーを飲みながら段々と体が起きている感じだが、到達したい自分になりたくて、ちょっと追われている感覚が強くなっている。

それが良い方に働けば、結果にも繋がると思うけれど、焦ってストレスになってしまうとまた以前と同じように停滞する時期を挟むことにもなるだろう。

生きている実感は人それぞれ!?

中高年になって、自身に残された時間があと20年くらいだなぁと思う。

もっと長いかもしれないし、もっと短いかもしれないが、若い頃にはそんなことなど考えなかったけれど、100%今だけを信じて生きることはなくなった。

今、Amazonでセールをしていて、それに合わせてランニング用の腕時計を買いたいと思っている。

価格は性能やブランドによってまちまちで、一番低価格なモデルでも3万円くらいする。

普段なら、3万円という価格などもったいないなと思って諦めてしまう性格だけど、我慢とか諦めてしまうということだけでは何もうまく行かないと思うようになった。

さっきも触れたけれど、我慢していても20年が経過したら、こみちという人間の人生はもう淡々としたもので、そこに何か変わることなどなくなる。

親との同居で起こる様々なすれ違いも、同じように老いたこみちが親の立場となって体験するようになる。

あれこれと夢を描いている時は、頑張ろうと思えるのに、日中や夜、親と顔を合わせると、その期待やワクワク感も失ってしまう。

互いに何も可笑しなことなどしていないと思って生きているのだけど、親には親の、こみちにはこみちのこだわりがあって、その全部を抱えようとしたら、やっぱりストレスしか残らない。

「なんでお父さんはお湯しか沸かさないの?」

そんなことを口にすれば、朝の忙しい時間に何故か起きて来て、キッチンの水道水をそのタイミングで使い出す。

「エエエ、今?」

フライパンを振っている脇に立ち、父親のコップを洗っている。

しかもササッではなく、マイペースに。

言えば、何かして欲しいと思うけれど、こみちが5分で終わりにしたいことを、それこそ自分のペースで、自分の見えている景色の中で父親も動いていて、そんな状況を見ているとやっぱり協力して分担は難しい。

このブログにも買いているけれど、老いてくると1ミリも譲れなくなる。

わざとではなく、見えている景色が狭くなって、それこそ想像する範囲のことをしていると、時間が長かったり、邪魔になったり、余分なことだったりと、誰かの役には立たない。

現実ばかり見ていたら悲しい!?

先日、父親が買ったというサイズの違うフライパンが、コンロにポツンと置かれている。

母親が扱うには重いようで誰用なのか分からないけれど、父親のプライドもあってしまわないで置いてある。

そのフライパンがたとえ1000円で買えたとしても、家での用途とは違うからやっぱり誰も使わないし、かと言ってしまってしまうこともできない。

コンロを使う度にその使わないフライパンをどこかに置き直し、調理をすることになるけれど、そのひと手間が面倒ではなく、そんな時に現実の停滞間を強く感じるのだ。

どういう訳で料理もしない父親が、しかも今使っているサイズも調べないで、適当に買って来てしまうのか。

頑張ろうと思う気力を吸われているような気がする。

やっぱりダメなのかもなぁと思ってしまったら、それこそあと20年しかないのに、その時間さえも意味を失いそうだ。