『お金、払おうか?』と聞く母親の話

 父親の免許更新があるらしく

免許を更新する時の年齢が75歳を超える場合、今までの手続きに加えて、認知機能検査と呼ばれる確認検査が加わる。

記憶力試す内容と時間に関する質問で構成されているようで、

簡単に言えば、あらかじめ16枚のカードに描かれたモノを覚え、簡単な作業や検査官との会話を経た後に、その内容を思い出してもらうというもの。

もう一つは、「いま何時ですか?」「何曜日ですか?」というようなことらしい。

youtube にも、「認知機能検査」と検索すれば、確認検査の内容や制度について解説していたり、カードの暗記方法を紹介していたりとここで紹介するよりももっと詳しい内容を見つけられるだろう。

また、高齢者にも馴染みやすい書籍も沢山出ているから、一冊手に入れれば、対策も立てやすい。

そもそものきっかけ

母親が妻に今年、父親が認知機能検査を受けることになったと相談を持ちかけた。

制度の内容や準備の方法をインターネットで調べて欲しいと話したようだ。

母親にとって、インターネットは今でも魔法のツールで、それこそ確認検査の答えまで調べられると思っているようで、例えば「A」と覚えればいいみたいな答えを知りたかったという。

確かに、ネット上には「今回、Aコースの試験を受けました」とか、「Bコースでした」と実際に検査を経験した人がブログなどでその体験談を発信していたりもする。

しかし、それが父親のケースに当てはまるのかは、当たり前だが違うだろう。

そこで妻が答えたのは、通販サイトAmazonに認知機能検査の書籍が売られているという情報だった。

「どうします? 買っておきますか?」

妻からの提案に、母親は「お願い」と返事し、父親は必要ないと答えたらしい。

商品が自宅に届いて

「先日頼まれていた本l届きましたよ」

妻名義で購入した書籍が自宅に届き、妻が母親に手渡そうとした。

「本? 私も本屋で買おうと思っていたの」

「ネットで購入するって話したじゃないですか?」

「なんだかんだ毎日、忙しくて…」

妻の差し出した本を受け取り、「お金払おうか?」と聞く母親。

高齢者との同居では

まだ高齢者と暮らしていない人は「それ本当?」と思うかもしれませんが、どこまでを理解し、どこからが曖昧なのかが判断できないことを経験します。

つまり、「お金払おうか?」と聞く母親の言動をどう理解するべきか。

いろんな解釈があると思いますが、母親は本を欲しいと思っていた。

それで妻に相談したが、もうその記憶が曖昧になっている。

そんな中、妻から手渡された本。

なぜ妻が持っているのかを考えることもなく、「借りられるの?」という感覚で「お金、払おうか?」と聞いたのかもしれない。

そもそも、経緯を考えれば、75歳になっていない妻が、その本を必要とすることは考え難い。

「なぜ持っていたのか?」と想像すれば、普通はある程度理由が分かるだろう。

すっかり忘れていたとしても、本を見て相談したから買ってくれたんだと思い出すだろう。

でも今回は買って欲しいと言われて買ったのだけれど。

もう一つは、単純に「払おうか?」と聞けば「いいですよ」という答えが返ってくると期待しているから。

ケチだからという理由と、家族だから支えて当然という理由がある。

一家の大黒柱である父親の免許更新。

それを支えるのは家族の使命だと思っていても、母親の場合は不思議でもない。

余談

本を買うか買わないかという段階で、母親から「本を買う?」と持ち掛けられて、父親は必要ないと答えた。

一つには検査をパスしなければ、免許更新できないことを父親が理解しているのかこみちには判断できない。

「どうにかなる」と思って必要ないと答えたかもしれないのだ。

もう一つは、母親と妻の会話を知っていて、自分が何も言わなくても買うだろうと予想していた場合だ。

「買って欲しい」と言えば、自分が頼んだことになる。

でも「要らない」と言ったのに、母親が「買っておいて」と頼んだのなら、貸を作らずに済む。

本が実際に届いても、自分から頭を下げて「ありがとう」と言わなくても済む。

高齢になった両親の言動を見ていると、本当に状況を理解しないで言っているのか、ある程度損得を考えて言っているのか分からないようなことが多い。

昨晩、トイレの便座カバーが汚れていた。

汚すのは仕方ないことだけど、そのまま放置してしまう行動には悩まされる。

汚したならカバーを交換して、洗ってしまえばいいだけなのに、次に入るこみちや妻が気づくまで、両親は「汚れている」とは認識していないのかとも思えてしまう。

「汚した時は声掛けて!」と言ったこともある。

「わかった」という父親は、自分が汚すとは思っていない。

母親は「またお父さん? 困ったわねぁ」と言うけれど、汚れに気づいてカバーを洗ったことがない。

可能性としてなら、もちろんこみちが汚していることだってあり得る。

自分は汚さないと思い込んでしまうのは、父親と同じ気持ちだ。

でもトイレを出る時に、毎回便座カバーの汚れや便座内の汚れを確かめているから、気づかないで立ち去るとは考え難い。

ちょっと思うのは、便座カバーを装着する手順が父親は理解できないのがネックになっているのかもしれない。

これは母親からの話で確認してはいないことだけど、父親はもう何年も前から便座カバーの交換が難しくてできないらしい。

本を買うか買わないかの答え同様に、父親は「自分が動かなくても誰かがしてくれる」と思っているように思う。

夜な夜な、ヤカンで湯を沸かすことで、父親は家族が食事や洗濯、掃除をしていることと同等の家事を担っている自負があるのかもしれない。

キッチン周りの掃除もすべて済んで、その後にやっと自分の出番が来た、待ちくたびれたと思いながら、ヤカンを火にかける。

1つは1つ。

1時間掛けて料理をしても、湯を沸かすのも、作業としては同じ1つ。

本当にどこまで理解しているのか分からないから、高齢者になった両親との同居で、「ん?」と思うことが度々起こります。

「奢り?」

何か土産を買って来ても、最初にありがとうではなく、そう言う母親。

本心はどこにあるのでしょうか。