ジョギングのし過ぎで身体が痛いという話

 ジョギングをし過ぎるとどうなるか?

イメージとしては、たくさん走ると足が疲れるように思いませんか。

しかし、今のこみちは全身が痛いのです。

特に下っ腹。

意外に思いませんか。

何でも、長い距離を疲れないように走るにはコツがあって、正しいフォーム作りがポイントなんだそうです。

ここでは技術的なことには触れませんが、こみちの場合、そのフォームを維持するために特に下っ腹の筋肉がたくさん使います。

つまり、ジョギングは健康維持に効果的ですが、中高年が気になるお腹の脂肪も解消できると思うのです。

さらに別の話をすると、歩けないくらい疲れても、走ることならできるという状況があるということ。

イメージとして、歩くことの延長線上に走るがあると思ってしまいますが、特に長い距離を走る時の動きは歩く動作とは身体の使い方が異なります。

その違いを身体が認識しているかどうかは、お尻から太もも裏側の筋肉を使っているかがポイントで、さらには内腿にも特有の筋肉痛が発生します。

猫背では正しいフォームで走れないので、普段の姿勢から見直すことが、疲れないでも走れる体づくりになるようです。

10キロ走、15キロ走、20キロ走、25キロ走と段階的に距離を延ばして来たのですが、最近行った25キロ走でこみちの体力の限界点を感じました。

「絶対に走れない」という意味での限界ではなく、「より正しいフォーム作り」を意識する限界です。

学生時代に何かスポーツの経験があったりすると、基礎体力が他の人よりも高いことがあります。

こみちなどは学生時代にスポーツに打ち込んだ経験もないのですが、資質の部分でクリアできる距離があって、こみちの場合は20キロから25キロに距離を伸ばして強く感じました。

バイク操作が上手くなった時の経験

思い出すと、こみちの学生時代はツーリングがありました。

バイクに乗って、下道を1日で1000キロ走るという経験もしたほどです。

イメージとして、東京を東北向かって出発し、仙台市まで行き、そこから本州を横断し新潟市まで進み、さらに海岸線を西に向かって糸魚川市で内陸へと進路を変え、甲府市を経てまた東京に戻ると大体1000キロくらいの距離になるはずです。

四国一周も同じくらいの距離だったと思いますが、どうでしょうか。

若さがないと、そんな距離を24時間で走るのは到底できませんし、何より「それって意味がある?」と疑問の方が大きいでしょう。

他人にどうそれを説明するのかではなく、年を重ねて自身のことを振り返った時に、日常生活の繰り返しがそれほど記憶には残りません。

しかし、ある程度まとまったボリュームを経験すると、それは自慢にはできませんが、自身の人生を彩る記憶にはなるはずです。

そして、バイクの運転が特別上手かった訳ではないこみちでしたが、毎日何時間、何十時間も乗っていたら、やっぱり上達しています。

特に疲れない運転方法が身につき、疲労感もあって無駄な動きほど無くなります。

ここでも技術的な部分は省略しますが、それこそジョギングの上達に重なる部分もたくさんあります。

本当に伝えたかったこと

階段の上り下りが大変なくらい、身体中が痛かったのですが、母親が密かに妻に理由を聞くほど心配していたそうです。

何も無いことが幸福なのではなく、興味や関心を持つことが幸せだと思うこみちにすると、「この距離を今の体力で走破できるだろうか?」と想像し、「完走は無理だけど、ここまでなら走れるかもしれないな」などと思えることに価値があると思います。

さらに言えば、あと残りを克服するためにどうすれば良いのかを工夫やトレーニング方法で解決できないかと意識が向くことで、結果的に「生きる意味」を見つけていることにもなります。

「生きることの価値」を考えると、答えなど見つかりません。

「十分に満足した」と思えば、それはそれで完結するからです。

しかし、現実は「なぜ生きるのか?」ではなく、「どう生きるのか?」であって、生きることの理由探しではなく、生きているからこそそれをどう活かせるかということのようです。

例えば父親は膝が悪く、段々と一回で歩ける距離が短くなっています。

「歳を取ったから仕方ない」とか、「何で膝が悪いんだろう?」と考えても、すぐには答えなど見つかりません。

それこそ、5年前から対策をしていたら、今とは違う結果になっていたということもあるでしょう。

「その時に戻れたら、2回目は努力をする」という人は、きっと「今からでも努力を始める」はずです。

原因は全く違いますが、全身の筋肉痛を感じて、階段の上り下りが大変になって、父親が膝の痛みでどれだけ大変なのかも理解できたと思います。

しかし、その一方で、「だから一日中テレビを観て過ごすしか無い」と結論づけるのは違います。

生き方として「テレビ鑑賞が何よりも好き」ということを否定しているのではなく、「どう生きるのか?」という部分で考えるべきことがありそうです。

「不幸」だと思えば、どんな境遇でもそうなりますし、「幸福」だと感じれば、どんな環境でも希望を持てるでしょう。

ジョギングを始めて、例えばいつか四国のお遍路参りに行ってみたいとも思えました。

それが本当に叶うのかは分かりませんが、そんな夢も描けると思えたのは事実です。

距離だけで言えば、バイクで1日でも走れますが、歩きとなれば最低でも2ヶ月、3ヶ月を要するでしょう。

その期間、ただただ足を前に出し続けるということが、どんな意味や価値なのかを考えても答えは見つかりません。

でも、成し遂げた時にしか感じられない達成感があって、後にあってあんなこともできたと思い出にできることが幸せなのでしょう。

昔は短時間で簡単にできることが重要でした。

しかし、歩いたり、走ったりするスピードでしか感じられない経験もたくさんあって、それこそ旅行で一泊二日で四国を訪れた思い出もいいのですが、人生のある時期に歩いて巡ったということが何か自身の人生に価値を見出してくれる気がします。