母親の言い分は
気まぐれで湯を沸かしている父親の生活ぶりを、少なくともこみちは少し不満に感じている。
理由を挙げるなら、父親が「家事をしている」と思い込んでいるけれど、周りの家族は楽になっていないからだ。
確かにポットに湯があれば、インスタントコーヒーを飲みたい時に便利だったりする。
でもカップ麺に使う時は、その温度が一定ではないから、沸かし直すことになる。
こみちの場合、朝にコーヒーを飲むことが多いけれど、それも朝食を作る時だから、沸かす手間はほとんど変わらない。
それ以上に実家の片付けをして欲しいし、段々と荒れてくる庭木の管理も気になる。
その意味では、本当にして欲しいことには手を出さず、誰かができることにちょっと手を出しているようにしか見えない。
そんな不満を持っているこみちは、どうしても父親の姿を見て、満面の笑みで接することはできなくなった。
一方で、母親は「好きなようにさせておけば?」と言う。
しかし、例えば食器乾燥機にまだ汚れの残った食品トレーを食器と一緒に乾燥させるのはやめて欲しい。
なぜって、汚れた内部は父親ではなく、こみちが毎晩掃除しているからだ。
正しく使って汚れたのは仕方ないとしても、手間を省くために別の作業が必要になるのはちょっと遠慮して欲しい。
「好きにさせろって、誰が内部を洗うの?」と母親に聞けば、ダンマリして答えない。
最近というか、この頃、問題解決に対して、前に進まないことが多過ぎる。
まだ父親にもやる気があった頃、私たちの家族も解決策を持っていた。
でもそのタイミングで、母親は父親の自由を許し、自由に生きることを受け入れた。
ここで言う自由とは、義務を背負う自由ではなく、自由奔放の自由だ。
社会との繋がりと持つ意味での仕事を辞め、特に家事として役割を担うこともしないで、好きな時に起きて、テレビと食事をし、また眠ければ朝でも昼でも好きなだけ寝ている。
家族が時間に追われていても、家事を手伝うようなことはなく、代わりにテレビを観て待っているのだ。
ある意味で、子どものような態度をとる。
かと言って、周りでどんどんと手を回せば、それに甘えてくるし、放置しておくにしてもやるべきことは待ってはくれない。
父親は荒んでしまうことさえも肯定しているから、切迫詰まっても動き出すことはしないし、逆を言えばそこに忍耐強さを誇っているようにさえ見える。
どこで頑張っているんだろう?
正直なところ、こみちだって段々と処理速度は低下しているし、最近ハマっているジョギングでも体力の低下や無理できない状況を強く感じる。
何かもう少しと思っても体が言うことを聞いてくれない。
だから、100点ではなく、60点を目指して、ゆっくりと進んで行くしかできない。
若い頃のように一気に片付けてしまうほど勢いがないのだ。
その意味で、悪化した状況が堆積すると、その処理ができない不安でストレスが増し、精神的に不安になってしまう。
やっぱり、全てに対して待ちを決め込む父親やそれを許す母親の方針には付き合いきれない。
話は変わるけれど、この前、あまりにレンジの中が臭くて、内部を掃除した。
そして昨日、もう食品の何かが内部に残されていて、愕然とした。
臭いとも感じないし、感じても気にしないと言われたら、もうお手上げだ。
「この前、掃除したんだけど!」と言ったところで、「ありがとう」とか「知らなかった」で終わる。
大切なのは、汚したら拭くなりすることだと思うけど、食品トレーを乾燥機に入れて満足する習慣と同じで、一度覚えた習慣はどんなに説明しても直せない。
さらにその影響を自分自身で見ようとしないから、生活全体が段々と低下しても受け入れるだけになってしまう。
そもそも同居することになったのも、両親だけで暮らしていた実家は、物で溢れていた。
玄関には段ボールの箱が積み上げられて、廊下にもジュースの箱やらいろんなものが積み上げられていた。
使わなくなった階段には、空き瓶や空き缶が並んでいたし、どうやって掃除しているのか心配になった。
「好きに生きる」と言っても、何でもしていいということではないはずだけど、思いついたことをする父親の自由を全面的に受け入れたがる母親がいて、二人はそれで上手くいっているのかもしれないが、そこに関わるこみちの負担や不安も分かって欲しいと思ったりするのだけれど。