「人は本当に変わることができるのか?」って話

 人は本当に変わることができるのか?

先に持論を話させてもらうと、人は変わることなどできないと思っている。

顔立ちはとてもタイプなのに、性格だけは合わないと思う異性は、きっとこの先も互いに心地良い関係にはなれないだろう。

几帳面やおおらかなど、性格に関する形容詞はいくつもある。

あの人は、明るくて優しいというような表現をする。

ではもう少し踏み込んで、性格って何だろう。

ある一面を取り上げるなら、物事への対処ではないかと思う。

目の前の「コップを手に持つ」というだけなら、そこに性格の差はほとんど見られない。

しかし、持ち上げたコップの底が濡れていたらどうだろうか。

人によってはすぐに何かで拭き取るだろうし、同じ拭き取るでも手のひらや指で擦って終わりにするかもしれない。

また別の場合には、拭かないだろうし、そもそも濡れていることにさえ気づかないということもある。

しかし、相性という意味ではまた視点が変わって、拭き取ることが当たり前の人は、濡れていることに気づかない人と性格的に合わないとも限らない。

気づいた人がササっと対処することで、特別問題にならないからだ。

問題にあるのは、気づく人が気づかない人の性格を直そう(自分よりにしよう)と思った時だ。

「しつけ」の大切さは、まだ習慣化されていない段階であれば、繰り返し慣れることで「濡れていたら拭く」ということができるようになる。

洗いたての皿も時にいつか乾くだろうが、ふきんや乾燥機を使って乾かすようになるのも、「濡れていたら拭く」というしつけから派生した行動だろう。

しかし本来ならの性格ではなく、あくまでもしつけによってできるようになったことだから、できていないと違和感があるというのではなく、しなければいけないことという認識かもしれない。

つまり、ある程度しっかりとしつけがされていたら、ベース部分が出来上がり、たとえ全く性格的に合わない相手だとしても、幾つかの共通点を見つけられるだろう。

「しつけ」はいつまでできるのか?

「濡れていたら拭く」ということを仮にしつけと呼ぶなら、それはコップで飲むようになった頃から段々と始まることになる。

「コップが濡れいているね。拭きましょう」と、本人が拭かないまでも、そうやって誰かが口にして目の前で拭いている姿を見せれると、目から人は覚えるものだ。

しかし、しつけされていない人しか周りにいなければ、目で覚えることもないまま、大人になってしまうこともある。

他人とは異なる性格を「個性」と呼んだりするけれど、多分「個性」とはそう言うものではない。

拭かないことが個性なのではなく、拭くというしつけがされなかったに過ぎない。

あえて言うなら、個性とは拭き方の問題だと思う。

同じ布巾を使うにしても、最初から最後まで同じ面で拭く人もいれば、一回目とは違う面を使う人もいる。

物事への対処だから、性格とも呼べるけれど、ここでは個性として考えた。

誰の真似をするということができれば、環境さえその人にあっていたら、後天的にしつけと同じ効果が期待できる。

しかし、合っていない環境下では、何でも覚えて真似てしまう性格が、時に覚えるべきではないことまで身についてしまうこともある。

素直でいい子だった人の中に、見て真似ることができるタイプでも、そこに分別がなければ、いつしか自我が芽生えた時にそれまで身につけたしつけさえ全く無意味になることがある。

つまり、拭くことの意味を知らないまま、形式的に拭いていたという場合だ。

汚い言葉使いをしていても、敬語でも話せる人がいる。

場面に応じて使い分けているからだ。

しかし、キレイな言葉使いだったはずなのに、環境によって汚い言葉使いになった人は、もうキレイな言葉で話すことが自分自身ではできない。

つまり、しつけがいつまでできるのかというと、そもそもしつけができないタイプがいて、そんな人にはしっかり適切な環境づくりが欠かせない。

また、自身でしつけではないものの、向上心を持っていたら、少しずつでも変わることができるとも言える。