「メンタルの故障はなぜ起きたのか?」とその克服に有効な方法の話

 前兆は別にもあるけれど

こみちが自身で記憶しているのは、2021年の暮れが山場になっている。

急に、叔母のことで連絡が入り、彼女の生活に大きく関わることになって、こみち自身のプレッシャーが一気に増した。

それまでは、仕事の無い日が休息日だったのに、その休みの度に叔母の件でいろんな所に訪れて、時間を気にしながら期限が迫る叔母の将来を決めなければいけなかった。

仕事をしている時間が何も考えない時間で、休日は毎回が大変という感じで、心身だけではなく、経済的にも焦りがあった。

さらに言えば、叔母は父親の妹になるにも関わらず、全く関心を持たないだけではなく、テレビを見て過ごすことを通した父親と信頼関係が失われた。

実際、ある程度順調に進んだことには手を出しても、大変そうなことは自身の得にならないとそっぽ向く父親で、日常生活でも1から10まで自身でやり通すところを見たことが無いほどだ。

「この人は頼りにならない」

昔から思っていた父親という人間の評価が根底から覆され、「優しい」という評価さえ、「決断を先延ばしにしている」と見えてしまうまでになった。

いずれにしても、その根底の評価が変わったことで、表面的なやり取りでは何も変わることができない。

膝に痛みがある父親

加齢による関節の変形に加えて、運動不足と過食が重なり、お腹が膨らんでいる父親。

わずかな距離でさえ、ようやく歩いているというほど、脚力も低下している。

やはり、中高年になると運動に対する意識は大切で、無理は禁物でも、日常的に運動習慣は持っていたい。

父親の場合、自室から、リビングの定位置から、トイレは10メートル以内にある。

言えば、そこまでの移動が父親にとっての運動になっているとも言える。

結局、父親がどうしたいのかではなく、そんな父親を見ているこみちの方が、精神的にキツかった。

できることもしないで過ごし、最後は「トイレにも行けない」ということになって、それこそ叔母の件で大きなストレスを感じたことがまた起こると思ってしまう。

何もしなかったとは言え、それだけの大変さを見ていたはずなのに、父親の生活は1ミリも変わっていない。

家族にその大きな負担を掛けることに全くの躊躇すら感じていない父親という存在が、悩みをずっと考えなければいけないこみちのメンタルを壊してしまうだろう。

今は、時間があるとジョギングにしていて、昨日も25キロくらい走った。

これだけ走れば心身ともに疲れるだろうという距離に挑むことで、実はメンタルにロックを掛けているようなものだ。

疲れて何も考えられない。

そんな状況を望んで作っている。

こみちのメンタル回復法!?

先ずは原因となっている環境の改善が必要だと思う。

対処できない段階になっていることで、結果的にメンタルが壊れてしまったと思うからだ。

職場や学校で起きていたなら、その場所から少し距離をおいて、ストレスを蓄積させない生活に変えたい。

その段階で落ち着いてくると、自分の好きなことや興味のあることを見つけて、暇になった頭の中を楽しいことで埋めてしまうのだ。

こみちの場合は、絵を描くことだったと思う。

その次が、運動習慣を取り入れることで、先ずは「散歩」を5分だけでもいいので、身支度をして表に出るという行動をしてみることだ。

メンタルを保護するために、好きなことばかりで満たしていた状況から、生きていくための環境へ段階的に変化させる一歩なのだ。

散歩中は足を動かしていることで十分なので、外の雰囲気に居られればいい。

そして、こみち自身はジョギングを取り入れた。

ポイントは「達成感」で、今でいうと安定して走り切れる10キロではなく、足にも負担を感じる15キロ以上で、「苦しい」「キツイ」という意識に負けない経験を植え付けている。

タイムではなく、立ち止まらないように足を出し続けることだ。

すると、遠くに感じたゴールも段々と近づいて、いつかは終わっている。

苦しいことは永遠に続くわけではなく、むしろいつまで続くのか分からないことがストレスをさらに強めてしまうのだろう。

25キロを走った残り5キロくらいは、歩いているのと変わらないくらいの歩みで進む。

「もうダメだ」「キツイ。苦しい」と何度も心の中で叫びながら、それでも足を出し続けた。

一夜明けて、今の身体のあちこちが痛いし疲れている。

はっきり言えば、そんな時も朝食を作るしかない。

父親が助けてくれることもないし、できた朝食を当たり前のように食べて満足するのだろう。

でもそんな父親のことで悩んでいたら、結局は考えるこみちのメンタルが壊れた。

何も考えない人に、考える人があれこれと不安がっても仕方ないことなのだ。

考え方を変えて、ジョギングの時のように、遅くてもいいからやり続けることだ。

そうすれば、どんなこともいつかは終わる。

今はそんな風に感じながら、生きている。