感覚が鈍くなる両親に悪気は無いってホント?という話

 謎に多い台拭きの話

こみち家には、キッチンに台拭きが3枚あります。

一枚はテーブルの上などキレイな場所で使う用です。

別の一枚は、シンクの中を拭く時用。最後の一枚はコンロ周りを拭く時に使います。

ただ、コンロ周り用と言っても油汚れがある時は、使い捨てのクリーナーシートがあるので、最後の一枚はその後の仕上げ用ということになるでしょうか。

また、新聞広告に入ってくるチラシをハガキサイズくらいに切った紙が、札束の様に束ねられ、それがリビングの脇の段ボール箱にかなりの量でストックされています。

その用途は、食事後に皿に残ったソースなどを先に拭き取るために使うのです。

また、フライパンの汚れには、キッチンペーパーもあって、調理後の汚れにはコチラを使います。

つまり、似たような目的に複数の手段が用意されていて、結果的に家の中が乱雑になっているのです。

それをしているのは、もちろん両親ですが、「物を大切にする」という昔からの習慣がこんな形で残っています。

父親の場合、テーブルの水滴を見つけると、一番近くにある台拭きで拭き取り、それをそのまま元の場所へ戻してしまいます。

「水だから」ということなのかもしれませんが、使っても台拭きを水洗いしたりはしません。

何気なく見ていて、「あの台拭きってキレイなのかなぁ?」と思うのです。

こみちも潔癖では無いので、どうでも大丈夫なのですが、こだわっているようで、そうでもない両親を見ていると、「何であんなに台拭きが多いのだろう?」と思ってしまいます。

品数さえあればイイ?

母親の作る料理は、今でも肉料理と魚料理が夕飯に出されます。

なかなかの手間だと思うのですが、品数を欲しがる父親のために、食卓にはたくさんの皿が並ぶのです。

昨夜の肉料理として、焼き鳥がありました。

他に、キャベツともやしをタマゴと炒めたものがあって、それが激マズなのです。

キャベツと言っても生の状態ではなく、カットされた全切りに加工されたもので、厳密にはレタスやニンジンなども含まれていて、以前からその野菜は炒めると美味しくないと家族でも気づいていました。

しかし、賞味期限が迫るとそんな事実など忘れて、炒めてしまうのです。

珍しく、妻はそれを見て「カップラーメンを食べる」と言い出し、母親の料理には手を出しませんでした。

こみちもその野菜炒めを一口食べて、「ん、マズイ」と再認識し、やっぱり避けてしまいます。

結果的に、大量の野菜炒めはそのまま残り、捨てるか翌朝に両親が食べることになるのですが、父親は多分食べないでしょう。

そうやって残ってしまうという事実が、なぜ起こるのか。

母親はあまり考えないので、「私が食べればいい」と我慢することに力を注ぎます。

こみち家のルールはいつの間にか元どおり?

買って来た野菜は、冷蔵庫にしまう時に手間側に古いものを置くと決めました。

しかし、最近はどう見ても古い物が奥にあって、新しく見える物が手間にあったりします。

ルールを忘れてしまったのか、古い物が奥にあることに気づかなかったのかは不明ですが、至るところで、ルールとは異なることが起こります。

例えば、ドレッシングも、マヨネーズとは別に2本が開封されていて、時にそれが3本になることもあります。

なぜ3本目を開封するのかというと、先に開けた2本のどちらかがもう少しでなくなりそうだからです。

しかも、残り少ないドレッシングではなく、開封されたドレッシングを使う人がいます。

つまり、あと少しだけになったドレッシングを誰かが意識して使わないと、3本あることが常態化し、いずれは4本、5本と増えそうです。

たくさんあるということ。選べるということ。

両親だけなのか、その世代のこだわりなのかは分かりませんが、こみちからすると自分の好きなドレッシングは一本でいいので、なぜにいろいろと広げるのか理解できません。

ドレッシングが好きで、そこにこだわるなら、それもいいのですが、生活の至るところで同じことが繰り返されていて、カレンダーが6枚も貼られていたり、ティッシュボックスが一室に3個もあったりと、両親には当たり前なことでも、ちょっと受け入れ難い時があります。