「時代を作る絵描きはどこか違うのか?」という話

 絵を描き始めて再確認できたこと

今、人工知能によって、人間が描く以上の質で絵を描くことが再現できてしまう。

ゴッホやピカソの画風まで再現できるらしい。

絵を描く人であれば気づくと思うけれど、「真似る」ことはそう難しい話ではない。

なぜなら、誰しもが何かを始めると、必ず「型」を覚える。

つまり基本の形を練習することで、さらにその奥深い部分まで理解が進むのだ。

見ている時と始めてからでは全く印象が違うのは、見ている時は簡単に思えることも、実際にやってみると、そこに来るまでがどれだけ大変なのか気付かされるからだろう。

絵を描くことは、基本的に楽しいことだ。

歌が好きな人が歌うように、絵もまた同じように楽しめる娯楽だろう。

では「上手い」と評価されるにはどうすればいいだろうか。

そこには2つの方法があって、一つは一般向けの評価を得ることで、もう一つがある程度の型を覚えた相手から得る評価である。

大きな違いは、地道な部分をよりしっかりと評価するようになるのが、型を知っている相手に向けたものだと言うこと。

つまり、派手な演出をしなければいけない理由は、型というものを知らない相手に、すごいと思ってもらう特効薬が見栄えだからだ。

絵の話で言えば、「質感の描き分け」のような課題は初心者ではなく中級者向けの課題で、その違いを描けることに評価ポイントを設けている。

例えば、ガラスと布。

その質感はどうちがうのだろう。

触れたこともない物の重さを当てることはできない。

つまり、「ガラスのような物」という経験値を人間がそう感じて判断しているのかがポイントになる。

布に比べて、光を反射しやすいし、面は平なことが多い。

変わって布は真っ平ではなく、シワができている。

言ってしまえば、質感を描く時に、それらのポイントがより反映されていたら、両者の違いを理解して描いていると評価者にも気づいてもらうことができる。

でもポイントはここからで、先ず本当に質感の描き分けがそこまで重要だろうかということ。

初心者から中級者へのステップアップとして、質感の描き分けを課題にするのは分からなくもないが、本来なら「描き手が何を感じて描こうとしたのか?」に尽きる。

ここで冒頭の話に戻るのだが、人工知能でゴッホやピカソ風を描けることに、あまり意味を感じない。

なぜなら、本当に感動していているのは彼らの絵ではなく、彼ら自身に対してだから。

作品をパンと見せられて、その解説を聞いても、正直、上手いのか下手なのかさえよく分からない。

でもそんな心境で、どんな時代や環境で、その絵に行き着いたのかを知るからこそ、一気に作品の価値が見えて来る。

つまり、絵を絵として考えている内は、いつまで中級者のままだ。

それが写真以上に高い質感だったとしても。

理由はとてもシンプルで、その絵にどれだけ感動できたのかという部分。

もう少し言えば、鑑賞した側もプロではないので、パッと見て上手いと思うか否かはあるにしても、さらにその絵から何か感情まで引き出せるきっかけになるかは、個人的な経験値が大きい。

ピンク色で描いたハート形に「愛」とタイトルをつけることもできる。

一方で、真っ黒なハートに「愛」というタイトルをつけてもいい。

逆に、真っ白なキャンバスに「愛」というタイトルをつけたらどうだろうか。

鑑賞者の経験値にもよるけれど、大人になると「真っ白で何もない」ことに「愛」という概念を結びつけ、そこに作者の意図を見出すこともできるはずだ。

つまり、より高く繊細な物を描こうとすると、それを評価する側にも高い経験値が求められる。

正直なところ、こみち自身、何を描けばいいのかで悩んでしまう。

今はまだ「描けるかなぁ?」という感覚で楽しめたけれど、ここからさらにステップアップするためには、自主的な意図が必要になるからだ。

ただ少し補足すると、人物画を描く時もその人物の似顔絵は描きたくない。

描きたいのは、その人らしい表情が表れた場面だ。

表面にあるものではなく、内面に隠された本質に迫りたいと思っている。

ある意味、感情(自身が自身であることに由来した感覚)を持たない人工知能がどんなに描けたとしても、それは人間が描いた絵ではなく、カメラで撮影された画像と比較するべきだ。

なぜなら、「見えたまま」を描いている訳ではないから。

今朝のNHKで

たまたま観ていたテレビ番組で、70代の絵を趣味にされている人が、自身の作品を公開する場を求めて、youtube のような動画サイトに投稿をしているという内容が放送された。

絵を描くだけでなく、撮影し編集するまでを誰かから教わり、その発見にまた違う楽しみを見つけたというものだ。

そして、そんな放送をしていることを母親に伝えたら、「やれる人はやるのよ!」と何もしない父親に対する感想のような言葉を言った。

でもね。

「やる人は…」というだけでは何も変わらなかった10年という年月が流れた。

そのままでは、この先もずっと変わらないだろう。父親も母親も。

言い訳。言い訳。言い訳。

「それを母親がしなければ変わらない」と言っても、母親は絶対に自分を変えないし、何らなら自分は違うと言い出して、いつものように何も変わらないまま話が終わる。

そして、3ヶ月後、半年後、もっと先に同じようなことが巡って、今後は身体のどこが痛いと話題をすり替える。

これは極端な例だけど、人の中には努力ができない人もいる。

分かりやすい直感的な部分でしか感じられない人だ。

それは絵に対してだけでなく、何ごとに対しても経験を活かして感じることができないから、話はいつもスタートラインにある。

今、格闘技の業界でも同じことが起こっているように思う。

人生を掛けて練習し、時にもっと気楽な生き方があると思いつつも、その身に置いて強くなろうと挑み続ける選手たちがいる。

一方で、茶番のようなドタバタが、バラエティー番組と誤認され、視聴者数の多さで評価されていると思ってしまう。

でも、多くの事柄は、ピラミッド型で、初心者が最も多く、そこから段々と経験を重ねてその奥深さに気づいて、さらに別の面白さに気づいてくる。

さらに言えば、その過程が人生のどんな場面にも似ていて、何か一つを最後までやり切れる大切さを理解し、もしかすると人生という答えを見つけるかもしれない。

しかし昨今の風潮は、スタートラインから始まって、またスタートラインに戻ってくる。

なぜなら、前に前に進むと気づく「限界の壁」を乗り越えられないから。

しかし、本当に知っている人は、躓いた人を馬鹿にもしないし、軽蔑もしない。

むしろ人生の一時期を真剣にその世界で頑張ったことに敬意を払うだろう。

そして、途中で挫折した人も、さらに高みへと進む人を特別な思いで応援できるだろう。

そうやって先に進む中で、背中を押してくれる人の分まで背負うから、どんな世界でも感動が待っているのだ。

確かに主人公であり続けることも大切だろう。

でも、流れの一部として、パスを繋ぐ人がいなければ、それこそスタートラインに戻るしかない。

「まだその話?」

なぜそう感じるのか。

単純にそこに重さが無いからだろう。

重さとは、覚悟とも言える。

そう考えると、こみちが描く絵に覚悟はあるだろうか。

なぜ、一歩も前に進めないのか分かった気がする。

もっと真剣に、なぜそのシーンを意味あるものとして描こうとしているのかを表現できたら、そこに初めて描く意味も生まれるのだろう。