「両親の態度は以前と同じです!」という話

 最近の母親の手料理

今日も、午前3時過ぎに目が覚めて、もう少し寝ようかと考えながら起きることにしました。

ちょうど、父親もトイレに起きていたようです。

年を重ねて、睡眠中にも何度か起きてしまい熟睡できないようで、日中もいびきをかいている姿を度々見掛けますが、別にこれをしなければいけないという仕事がある訳ではないので、父親は気楽なものです。

一方の母親は、昨日も寒空の下、働きに出掛け、夕方ごろに帰宅した時は本当に疲れている様子でした。

だからなのか、昨晩のメニューは、出来合いの山菜そば。

焼いた鮭もありましたが、それは今日の朝食へ回すことに。

数日前に作った肉じゃがも、何をどう作ったからなのか、想像以上に美味しくありません。

そして、その後に作った牛肉の甘辛焼きを食べて、こみちは気持ち悪くなってしまいました。

理由は、牛肉の冷え固まった油を食べたからで、食べる前にレンチンすればよかったのかもしれませんが、さっさと済ませたくてそのまま食べてしまったのです。

こみち自身の記憶としては、肉を食べて気持ち悪くなったことはなく、母親の手料理を食べることに少し躊躇いが生まれています。

同じ料理を作るとしても、10分、15分あれば十分にできたでしょう。

母親の負担を減らす意味では、こみちが夕飯を作った方がいいことは分かります。

でも長年、家族の食事を担って来た母親から、その役割を取り上げることはできないし、事実、こみちよりも腕はあると思っているでしょう。

でも、以前から一切の味見をしない母親の手料理は、美味しい時もあれば、全く味のない料理になることもあります。

そして最近では、生焼けや極端に味の悪い料理も出て来るようになりました。

それを知ったからなのか、母親はスーパーの惣菜や揚げ物を頻繁に買って来ます。

油の取り過ぎは身体に良くないと言いながら、手料理ではほとんど油を使わない焼くだけの料理を作る一方で、スーパーの揚げ物も頻繁に買って来るのですから、どこをどう健康に気をつけているのか疑ってしまいます。

本当は、朝だって作りたい訳ではありません。

でも今となっては、自分で作る朝食がとても貴重で、自分で納得した料理を食べることができます。

決して、凝った料理を作っている訳ではなく、目玉焼きや卵焼き、野菜炒めなどを作っているだけです、

でも、それだけのことでも、食べて違いを感じてしまいます。

なぜか父親がしゃしゃり出て

昨晩、山菜そばの作り方を父親がしゃしゃり出て教えてくれました。

何も難しい話ではなく、内容はカップ麺を作るに似ています。

「まず、蓋を開けて!」

「麺の下に汁が入った袋があるから…」

あれこれと指示をし始めて、正直、途中からいつまでしゃしゃり出て来るんだと困惑しました。

なぜなら、あれこれと急かされて指示される状況が得意ではなく、緊張し心拍数が急上昇しているのは明白です。

必要でもない状況を避けたいのに、父親にすれば「役に立ちたい」という気持ちが煩わしいのです。

両親としては、こみちに害を与えたいと思っている訳ではないのでしょう。

しかし、今となっては両親の行為を活かそうとすることが大変で、そのままではどこかに不満が出てしまいます。

こみちにすれば、もう心地よさなどありません。

何か我慢していたり、気を逸らしてやり過ごすことで乗り切るような感じで、接点が少ない方が好都合になっています。

それでも関わって行くのが、親との同居なのでしょう。

山菜そばの作り方を教える前に、もっとして欲しいことはたくさんあって、でもそれになると全くやる気にはならず、悲しいくらいに毎日は不満のまま続きます。

少し前、妻から実家の後始末を聞かれて、それこそ最後は業者にお願いして片付けてもらうしかないと答えました。

母親が頻繁に仕事をしているので、本当なら父親が時間を作って実家の整理をしなければいけません。

しかし一人では何も片付けられない父親は、結局、テレビを観て居眠りするしかないのです。

「やったらいいのに」

そんな風にイライラしても事は進まないので、こみち自身も気にしないようにしないと、ストレスに押し潰されてしまいます。

表面的なその場だけの優しさを父親も母親も出して来ますが、「アレはどうなったの?」と思うことが幾つもあって、だからこそ両親の優しさが一周まわって苛立ちになってしまうのです。

昨日、オモロウマい店の番組を観て、本当に慕われる人柄の出演者に感動しました。

何かが超一流というものではなく、でも55年と長く愛される店を営んだお二人の話でしたが、やはりそれを見ていると感動もしますし、見習いたいとも思います。

さらに言えば、そんなお二人だからこそ、人が集まって来るのでしょう。

こみちや両親を振り返って、そんな努力や心掛けをしているだろうかと思ってしまいます。

やはり自分自分で、他人よりも自身のことしか考えない生き方では、誰も寄って来ません。

その場で優しくしても、少し周りと見れば状況が分かります。

「ありがとう」と言った人も、そうは言っても心が動かされる感動はなかったでしょう。

信頼感や包容力のような温かさは、その場で見つかるものではなく、何度も何度も繰り返す中で築くものです。

だからこそ、相手もその人に誠意を見せてくれるのでしょう。

両親に優しくしても、「ありがとう」と言ってくれても、その行為から考えてはくれません。

その優しさをどれだけ都合を付けて、偶然に見えて段取りした結果なのかということも。

美味しいそうだから、買って行ったら「喜んでくれるかなぁ?」とちょっとデザートを買って帰るのも、その時に両親の笑顔を思い浮かべるからです。

でも、そうやって買っても、テレビを観ながらパクパクと食べて、特に感想も無いという態度に、「だよなぁ」と毎回、思うのです。

かと言って、父親が買って来るのは自分が好きなもので、「食べろ!」と言われても、好きではないものや、嫌いだと言ったものばかり。

つまり、「優しくしたい」の結果なのです。

父親や母親の気持ちを満足させるために、対応することが段々と悲しくて、何かされることさえも拒絶してしまいます。

心から笑えないだよなぁ。

なぜって、「優しいでしょう!?」という雰囲気に溢れているからです。