それでも何も変わらないのが親の介護
なぜ、介護施設の利用者には親切にできて、親にはできないのか。
理由は簡単で、「介護される相手」とまだ認識しないから。
自分を育ててくれた「親」という存在に、どこかでまだ尊敬や感謝を感じていたいと思ってしまう。
でも、実際にはストレスを蓄積させるようなことを、悲しいくらいに繰り返して来る。
湯を沸かすということも、本当なら気づいた人が対応すればいいだけの話。
何も難しいことではない。
でも、父親にすれば「俺も家事をしてみんなを助けている」と思えることで、母親にすれば「介護予防にもお父さんにして欲しい」と避けてしまうことになっている。
朝、起きてキッチンに来ると、時々、なぜかコップが1つシンクの中に置いてあったりする。
「一個だから、次の時にまとめて洗おう」ということかもしれない。
でも、朝それを見たこみちは、「なんで洗わないんだろう?」と感情が刺激される。
細々したちょっとの事で、両親との感覚に違いがあって、決してこみちも几帳面な性格ではないから些細なことではあるけれど、やっぱり節目ごとに片しておきたいと思ってしまう。
ただ、両親もどうやらそうすることしかできないみたいだ。
考えて改善するということが、すでに難しく、言い方を変えるとそれだけ「親の介護」が始まっていることになる。
口げんかをしていた(正確にはこみち自身が怒っていた)けれど、昨晩にシジミの砂出しが上手くできないと母親に話しかけられ、塩加減を見たりしていた。
「もう少し薄めでもいいかも。あと、暗い方が出すって聞いたよ」
きっと母親もそんなことなど知っていたはずだ。でも、距離をより避けているこみちに近づきたいくて、必死に話しかけるタイミングを探していたのだろう。
物事の改善は全くできないし、不安や問題をどう解決するのかも考えてはくれないけれど、両親ができる最大限のことをしているのには変わりないのかもしれない。
頭では理解していても、心は勝手に疲労を蓄積させていて、親の介護は難しいと思う。
でも、なるようにしかならないのも、介護。
そんな気持ちになって来た。