「人生が終盤に近づいたサインとは?」を掘り下げる

 人生はどう終わりを告げるのか?

若くて未来ある人の特徴は、「明日」があります。

「夢」でもいいでしょう。

一方で人生の終わりに近づいた人は、昨日と今日、今日と明日の差がありません。

例えば役割を失うと、朝決まった時間に起きることもなくなります。

誰も家を訪ねて来なければ、整理整頓も気にしなくなり、年末年始に大掃除をしようとも考えないでしょう。

例えば介護施設は、日常生活に不安を感じる高齢者も安心して暮らせる場所です。

しかしながら、施設の中には安心、安全を重視するあまり高齢者の「日常」までも奪ってしまうことがあります。

朝、時間が来ると声を掛けられて、時間が来るとご飯を食べて、また夕方のご飯が終わると寝るを繰り返します。

曜日の感覚も季節の感覚も薄れて、毎日が同じことの繰り返しになりやすいのです。

「計画を立てる」意味

叶うか否かの前に、これからの「計画」を立てることは生きるためにも欠かせません。

ストレスを「0」にすると、楽に生きられるかもしれませんが、それだけでは生きる意味を見失います。

なんだかんだでこみちは仕事のある日も無い日も「朝3時半」を目安に起きて来て、その日が始まります。

6時までに朝食と弁当を作るからですが、その意味ではもう1時間くらい遅く起きても問題はありません。

しかし、すでに単調な生活リズムで、毎日の変化は数パーセントという感覚です。

このまま「何も変わらない状態になる」ことを恐れて、ゆっくりと寝ていることが怖いのです。

「何かできるのではないか?」と思って起きるのですが、その行動さえ、もう変わり映えしない日常生活になっています。

意図して未来に向けた計画を立てないと、来年も3年後、5年後も同じ生活で、それはもう人生の終盤を迎えたサインでしかありません。

人生はどう終わりに向かうのか?

学生時代、中学も高校も長いようで3年ですし、大学も4年で卒業です。

小学生だって6年しかありませんし、その短い期間で人間は毎年グングンと大人になっていきます。

20代を迎えて、多くの人が「学校」という場所を離れて社会で働くようになり、その頃から行動範囲や付き合う人の多さ、期待される将来がそれぞれ異なり始めます。

田舎から東京に来れば、地下鉄に乗ることも初めてで、テレビで観ていた「渋谷」や「浅草」など、知っている地名が実在することを知るでしょう。

しかし、知らない人生だとしても、生まれ育った地元でずっと暮らし、そこで恋愛をして家庭を持つことも悪い選択ではありません。

都会の良さがある一方で、地元にしか無い良さがあるからです。

問題はどこで暮らしたのかではなく、「どう生きたのか?」ということ。

恋愛や結婚も「生きる意味」に気づくということでは、経験した方が人生の幅を広げてくれるはずです。

しかしながら、億劫がって避けてしまうと、それだけ体験できる幅を狭めてしまうので、自分で何か代わりになるものを見つけなければ、それだけ早く「同じ毎日」を迎えてしまうでしょう。

いずれにしろ、多くの人が退職を迎える年代になると、「通勤」から解放されて、毎朝会社に行かなくなります。

最初の1週間くらいは楽で良いと感じでしょう。

しかし、どこかのタイミングで「単調になった生活」に気づき、その単調さを変えられなくなっていることにも気付きます。

そう、「単調な生活」しかできなくなってしまうのです。

そして、やがてはその単調さを継続できなくなって、1つやめて、2つやめてとさらに単調さが強くなります。

今、同居する父親がトイレに起きて用を足しました。

しかし、また部屋に戻って横になるでしょう。

そこからしっかりと休むこともできず、でも時間は経過し続けて、「朝」を迎えます。

目が覚めてもすることがなく、「ご飯を食べること」以外、できない体質になってしまったからです。

毎朝、自主的に「家の前を掃く」と計画することができたら、単調な生活を少しは緩められるかもしれませんが、もうそんな気力はありません。

「何度も夜中にトイレに起きて辛いんだ」ということはできても、「早朝にラジオ体操しよう」とはならないのです。

そんなことを繰り返し経験して、最期を迎えるようになるのでしょう。

事故や事件とは無縁なら、昨日と今日、そして明日が同じなって来ることが一つの目安で、人生も終盤を迎えて、いつ「声を掛けられて」もいい時期でしょう。

夢を持つことや計画を立てること。

明日に希望を持つことって、まだまだ未来があるからこその行動です。

変化が薄れたと感じるなら、何でもいいので何か始めてみることをおすすめします。