「もう誰も助けてはくれない」を掘り下げる

 父親への不満

「なぜなんだ?」と思って、それを理解するためにいろいろと考えを巡らせて、「もしかして、悪気がないのかも?」という考えに行きつきました。

「悪気がない」というと、何か許せてしまいそうですが、考え方によってはとても厄介です。

なぜなら、そもそも悪いことだと思わないで生きているので、それが迷惑だと思ってもいないからです。

仕事で疲れた母親が夕飯を作り、そして食後には父親の食器まで洗っています。

これは以前に母親たちにも言ったことで、「できるかできないか」ではなく、「働いて欲しいから」こそ、母親の負担を減らそうと家族で動いていることがいろいろとあります。

しかし、そこでも父親に変化はありません。

冷たい水、赤切れなど、それこそ少しでも自分に損があると、一切手を出さないのが父親だからです。

じゃあ、誰が辛い思いをして食事を作ってくれるのでしょうか。

そこはどんな理由でも当たり前のことで、でも自分の場合は黙って恩恵だけを受けている。

そんな父親の姿勢に、こみちとしては耐えられないのです。

昔から調子の良いところがあって、でもそれが寛大さにもなっていた父親。

しかし働かなくなって10年以上。

さらに今後はますます介護のようなサポートが必要になるでしょう。

そんな話をすると、自分の不出来を棚に上げてと指摘されそうですが、確かにそれはあります。

しかし、どこから話を始めるのかという問題で、仮にこみちが全部できるようになったら、その時に不満も言っていいとしたら、それこそこみちは自滅するでしょう。

1日が経過して、とりあえず一回睡眠を挟んで、気持ちを変えようと思いましたが、意外にも変化はありません。

昨晩も少し妻と話ましたが、妻の答えは簡単に言ってしまえば「分からない」というもので、親子の関係にもこみちの精神的なケアにも関わってはくれませんでした。

実際にこみちが居なくなってみなければ、妻は振り向いてくれないでしょう。

父親や母親もその時は「エエエ?」と思うかもしれませんが、3日も経てばいつもの生活を当たり前のようにしているでしょう。

何より、なぜこみちが居なくなることを選んだのか、考えることも無い気がします。

それくらい、今の生活環境を変えられない上に、父親は周りからのサポートを授受し続けて生きるでしょうし、母親はボロボロになるまで尽くし続けて人生を終えるのでしょう。

妻は離婚を選んで自由になるのかもしれませんし、そんな両親とほど良い関係のまま生活するのかもしれません。