「なぜ、賃金を上げることが難しいのか?」を掘り下げる

 資本主義の命題

理論上、物価は毎年上がって然るべきものだ。

なぜなら、資本主義では技術やサービスを向上させることで、利益を生むと定めたからだ。

技術やサービスを向上させるには、その基本知識を得ることが不可欠で、さらにはより高い水準に引き上げることも欠かせない。

昭和の時代、高速道路ではまだ軽自動車が高速走行に耐え切れず、オーバーヒートになってしまうことがあった。

その脇を外国製の高級スポーツカーが抜き去って行くこともあっただろう。

一方で、現代の軽自動車で不便を感じるのは、長距離移動をした時の疲労感ではないだろうか。

タイヤとタイヤとの距離が、一般的な車に比べて短くなっていることで、アクセスとブレーキを操作する度にどうしても僅かな揺れが起こってしまう。

結果的に、長く乗っていると疲労感になってしまうのではないだろうか。

とは言え、日常生活の足として買い物や通勤などではとても重宝するし、オマケに維持費も安く設定されている。

どうしてもという人は、一般車を選べば、何も高額な車両でなくても、国内移動が楽にできるだろう。

さて、資本主義の命題が技術やサービスを向上させ、利益を生み出すことだとするなら、既に満足している日常生活に何を求めるだろうか。

むしろ、人間として生きる限り続けることになる食事や排せつなど、継続するしかないこと以外はその発展目的を見出し難い。

五年前の電化製品と最近家電を比べると、驚くほど進化していて、便利になっている。

しかも同性能なら安い。

このような状況を見ても、資本主義が求める技術力などの向上は年々難しいものなったと感じるだろう。

つまり、我々が担う労働も同じで、今までと同じ知識ではもう仕事にできない。

高卒が多かった時代から、大卒が当たり前になった時代へと変化し、さらに大学院残って学んだ人でなければ、その最先端な技術開発に関わることができないのだろうか。

例えばYouTube では、いろんなYouTuber が活躍している。

人気がある人とない人の差は技術力やサービス力だけだろうか。

思うにもうそんな時代は終わっていて、国民がそうタレント化しているのではないだろうか。

綺麗であることやカッコいいことが当たり前で、トーク力や企画力、もちろん資金力や人脈もその個人の評価になってくる。

良い大学を出たということだけでは、それこそ注目ポイントにはならず、みんなが求めるのは「どんな人なのだろう?」という部分だろう。

言うなれば、中高年という年齢を迎えた時に、もう夢の話をしても相手が興味を持たないのは当然で、ある意味で聞きたいのは「成果」に尽きる。

そのように理解した時、異業種に転職したいと考える中高年の仕事探しには「タブー」に近い質問がある。

それが「なぜ、この仕事に応募しましたか?」ということだ。

当たり前のことを言えば、多くの人が生活していく為や今までの仕事を失ったからなどということだろう。

それまでのキャリア形成を活かすことにどう自分が納得し、理解できているのかが重要なポイントだ。

とは言え、こみちは異業種に転職したし、その時は活かせるだけのキャリアが無かった。

行き当たりばったりに生きて来た結果でもあるが、晩年の仕事探しで苦戦するのはやむを得ない。

まして、賃金アップを狙うにも自身のウリなど見つからないし、もしもあったとしても現に活かせていないのだから、やはりなかったと言えるだろう。

技術や知識が頭打ちになり、しかもそれに追いついていないこみちが、以前よりも高待遇な仕事を得るのは難航して当然だ。

世界的な物価上昇が叫ばれても

もうそれこそ一度上がった物価が下がることはないだろう。

一方で、中高年の賃金アップをどう実現するのかも大きな課題になる。

日本が世界的にも長生きな国民で、年金や介護費も増えている。

しかも年々減っている人口を考えても、従来のままの労働で賃金だけをアップさせるのは資本主義の概念だけではカバーできないだろう。

若い人と同じ量をこなすことも出来ず、知識や経験がある時点で止まった中高年を再評価するためには、それこそ介護や清掃のように欠かせない仕事を担ってもらうような方法しかないだろう。

もしくはそれが嫌なら、そうなる前に自身のキャリアを形成するべきだったと思う。

例えば個人事業主やフリーランスのような選択をした場合、自身が提供する技術やサービスを値上げするのも自由だろう。

しかし、廃業する同業者がいるように、活路を見いだせない人も出て来る。

どう生きたら良いのだろうか?

今、こみちは高齢になった両親と同居している。

彼らは年々老いていて、できることが限られてしまう。

特に同じ作業が被った時に、短くても5分、長いと30分くらい間を空けないとできないこともある。

ただでさえ、こみち自身も手が遅いのに、日常生活の至るところで制限が掛かる。

昨晩も父親が「湯を沸かしてやろう!」と言った。

水を入れて火に掛けるだけのことだ。

でも、それを叶えるには、ポットの残り湯を捨てて、洗浄し、また全体を拭き上げて準備しなければいけない。

それをするのは家族の仕事だ。

分かるだろうか。

老いてしまうと、このように老化防止のために続けてもらっても、家族が捗るということは稀になってくる。

しかも父親の場合は自身が介護されているとは理解してしなくて、むしろ「助けてあげた」と達成感を持っているくらいだ。

晩飯を食べる時も、テレビは大音量で五月蝿い。

だから日常生活ではいつもイヤホンを付けて、ノイキャンが欠かせない。

さっさと食事を済ませたら、自室に戻ることになってしまうのも、いわば結果的にそうするしかなかったからだ。

自身のことを考えても落ち込むのに、そんな両親まで抱えたらどう生きて行けばいいのかわからない。

「どう思う?」と聞いたところで、その明確な答えを考えるだけの気力が無いのは分かっているし、できることしかできないようになっている。

時代的にはそれでは生きられなくなっていて、「何ができるのか?」を常に求められている。

しかし、中高年になったこみち自身のできることは少ないし、両親に至っては毎日同じ日常を繰り返すことしかできない。

これでさらに本格的な介護が始まったら、もう生きてはいけないだろう。