中高年の仕事探し「3年後の近い未来」を深掘りしよう!

 少子化と高齢化社会の狭間で

今、「シンギュラリティ」という出来事が近い未来に起こるとも言われています。

「シンギュラリティ」とは技術的特異点とも言われていて、簡単に言えば「人工知能が人類の知能を超えるタイミング」を指します。

計算力や暗記力という個別の能力というものではなく、問題の発見や解決という視点で人工知能が人間の能力を起こした時に、「ホモサピエンス」と呼ばれていた我々人間が別の名称になってしまうでしょう。

というのも、「ホモサピエンス」とはその生き物が自身の感情や感性で考えて行動するという特徴があって、知的欲求を持ち、好奇心に動かされて、さまざまな出来事を理解しながら取り組むと考えるからです。

例えば、ここ数年の間にコロナウイルスの発生を受けて、我々は生活様式や人生観まで変えることになりました。

自らの意思で変更するのは問題ないとしても、変えることでしか解決できない、又は変えても解決できないという状況は、ある意味でコロナ禍の影響を人間の英知では克服できないとは言えないかと考えます。

つまり、人工知能を用いることで、人間では解決できないレベルの問題を克服できると分かった時に、本当の意味で「シンギュラリティ」が起こると言えるでしょう。

少子化が進む日本国内では、年々人口減少が続いています。

今の社会で配置された人材を今後も維持できない時が来るのは時間の問題です。

また、高齢者福祉は介護現場を見ても分かりますが、まだまだ機械化できないことが多く、むしろ人の手が必要となる場面の多い職場です。

中高年の方で仕事を探す場合に、介護士という選択肢が候補になるのも、人材不足が顕著になる業界からです。

今の社会構造をできる限り維持しようとするなら、人工知能で賄える領域を積極的に取り入れて、補えない部分を人間がカバーするという構図もあって、やはり「シンギュラリティ」という状況が近未来に起こるのは想像できるでしょう。

中高年の仕事探しはどう変わるのか?

シンギュラリティが起こるという前提で考えるなら、今後約10年から40年くらい残された人生をどう生きるべきかですが、少なくとも今までの経験則では解決できない問題が出てくるでしょう。

例えば自動車業界では、エンジンの稼働で発生する二酸化炭素の排出を危機と捉え、電気自動車によるクリーンな環境を目指しています。

一方で、現時点では電気自動車を動かすためにはバッテリーが不可欠で、その製造や廃棄には二酸化炭素の発生が避けられないとも聞きます。

つまり、「自動車で走る」ということだけを見れば、二酸化炭素の軽減になっているのですが、自然全体で考えると今は問題視していないことを人間が見逃していないのか分かりません。

数年くらい前から、今後無くなるであろう仕事が話題でしたが、機械化によって失われるというものではなく、人類による決断で人工知能にサポートを受け入れた時に、機械化やプログラミングで再現しやすい分野ほど、その役割を失うでしょう。

つまりその過渡期に立つ現代では、既存の社会があとどれくらい継続されるのかが問題です。

例えば先に紹介しましたが、介護士の仕事を今すぐに人工知能で補うことはできません。

今中高年の方々が現役として働く間は仕事として存在するでしょう。

しかし、現時点でパソコンで完結するような書類作成などの作業は、今後さらに自動化が進み、1時間の作業を1分で終えて、あとは別の仕事をするということが当たり前になるでしょう。

これも聞いた話ではありますが、ショップ店員が昨今の値上げを懸念し、賃金アップを要求したところ、これまでの業務の一部に機械化が取り入れられて、作業そのものが機械に奪われてしまうという事例もあるそうです。

これだけ身近に迫った時代の変化は、便利を求めた我々の目指す世界観でもありました。

困難なことを仕事として考える!?

結論的なことを言えば、人工知能ではまだ補えない領域や機械に向かない領域などは、まだまだ仕事として残るでしょう。

例えば人間は人工知能ではないので、食糧を求め、ゴミを出して暮らしています。

酸素を吸って二酸化炭素を出すように、人間として生きる限りは避けられません。

つまり、介護の仕事のような人と関わることは代替できない部分でしょう。

もちろん、テクノロジーは「癒し」の部分でも開発を進めていて、撫でると生き物のように反応するぬいぐるみなどが作られていて、介護の領域でも介護士の役割はより限定的になるかもしれません。

とは言え、社会構造が段々と変化しているので、それこそ配送業務をドローンで補うようなこともあるでしょう。

変えられる業務は機械化し、人間でなければ難しいことだけが最後まで残ると思います。

意外な部分ではYouTuber のような仕事も残るのではないかと思っていて、その理由は人間が人間らしく生きるために必要不可欠な娯楽になり得るからです。