「技術力」とは何か?
介護士の目線で言えば、オムツ交換を始めとした基礎力にあたる。
イラストレーターであれば、デッサン力だろうか。
一方でサラリーマンなら、パソコン操作などが該当するだろう。
もちろんパソコン操作だけではないが、かと言ってプログラミング言語の習得までが含まれるとは言えない。
もっと別の例えを持ち出すと、自動車の運転におけるギアチェンジがあるだろう。
以前、オートマチック車のギヤチェンジは、感覚から少し遅れて行われていた。
一拍、二拍違っていただろうか。
当然だが、早く走行した時に、そのズレが結果にも影響して、レースの世界でオートマチック車を選ぶドライバーなどいなかった。
しかし技術力が高まり、今や人による変速以上の俊敏さでギヤチェンジができてしまう。
人間の進化よりも技術力の向上が早いから、いずれはプロドライバーよりも上手く奴れるシステムが完成するだろう。
もしもそうであるなら、我々が今するべき努力や意識は、ギアチェンジを巧みに行う練習ではない。
むしろ、基礎だけ知ったら、迷わずにその先へと進むべきだ。
その目安となるのが、技術力の向上で補えない分野を探すこと。
介護の分野で言えば、今はまだまだ介護施設で働くスタッフが必要になる。
しかし、仮に自動でオムツ交換できる機械が開発され、スタンバイまでできれば誰にでも簡単に済ませるようになったら、それこそ介護の考え方が大きく変化する。
最も、そこには「人とは何か?」という哲学的な領域にもなるので、介護負担の軽減と技術開発には難しい課題も含まれる。
極端な話、人をモノのように扱えたら、より効率的にことは進む。
しかし、人として生きることは、いろんな意味で無駄とのせめぎ合いで、結果が想像できても、時間と労力を注ぐことに意味がある。
「どうせ…」
と言ってしまえば、もう人としてすることなど無くなってしまうからだ。
その意味では、「してみたい」と思えることが重要で、好奇心こそが生きるモチベーションになる。
例えば、イラストレーターの描くイラストが実物同然に見えたとしても、実際にはピクセル単位で色調が酷似していたら、人の感覚など割と簡単に惑わせられる。
というのも、人間は「〇〇であるべき」という感覚を持っていて、1、2、と続けば「3」を連想してしまう。
つまり、本質的には3ではなくても、1と2があることで、それっぽく感じてしまう。
そんな錯覚を起こさせられるのも、広い意味では技術力による賜物だ。
世間的には、1や2を基礎というと同時に雑学としても扱う。
物知りに思うのは、3や4も知っていると思ってしまうからだろう。
でも本当に1や2を基礎力として身につけるのは簡単ではない。
むしろ、長い人生を通して、1つでも習得できれば、その仕事がある限り稼ぎ続けられる。
しかし技術力の向上によって、1や2が機械的に置き換わり、マスターしたことが必須ではなくなることが多い。
リアルな描写力は、その典型で、スマホのカメラで撮影すればことが足りる。
では、今でも絵を描くことが完全にカメラ機能で置き替わらないのだろうか。
そこには、便利であることばかりが重視されているのでなく、無駄でも手間を掛けることに喜びがあるからだ。
介護で1から10までやってしまう介護士がいる。
それでは何もすることがなくなって退屈だ。
だから、ほどほどで止めることも介護で、生命や健康に直結しない部分はできる限り本人に任せた方がいい。
できないことはしっかりと。できることは様子をみながら。
その判断こそが、介護士に求められるスキルであり適正と言えるだろう。
現時点で、ツールでは補い切れない部分を認識し、その技術力を踏まえて、より広範囲から判断できることが求められる。
技術力の根源から理解する必要はないけれど、仕組みを知り、どこまで置き換えられるかを分かると、そこから先に目を向けられる。
昭和生まれの典型的なこみちは、努力することに夢中で、そこに意義を見出そうとして、結果に繋がっていないのだろう。