「挫折」と「容認」の狭間にあるものを掘り下げる

 「やり切れない性格」が直せないワケ

人並み以上に繊細で、センスや能力もあるのに、「合格」や「卒業」のような節目まで到達しない人がいます。

それだけ能力もあるのだから、たとえ結果に結びついていなくても大丈夫だろうと周囲も思うでしょう。

しかし、よく観察してみると、その人らしさが現れていて、最も特徴的なのは困難に直面した時の反応です。

やり切ることができない人は、そもそも困難を克服しようとは思いません。

場合によっては、その存在に背を向けて、視界から排除するでしょう。

そして、周囲からの「キミはすごい!」と、既に周知された評価に耳を傾けて安心します。

中にはそれでも富を得て、社会的な成功者になれる人もいるでしょう。

ただ、困難になると逃げ癖があるので、「合格」や「卒業」というような節目とは無縁です。

子どもの頃、まだ互いに差がなかった頃、困難を経験すると逃げ出したりもしたはずです。

しかし、親の教育などにより、例えばサッカーなどのスポーツを通じて、困難に立ち向かう経験を重ねます。

克服できたか否かよりも、「困難できないほどの大変さがある」ことを受け止めたか否かがポイントで、それは大人になった時の他人への理解や受容へと繋がります。

もちろん、困難に立ち向かえない人にも優しさはあるのですが、大きな違いは「困難を受け止めているか?」という部分でしょう。

失敗した誰かを庇うことは、誰にでもできます。

しかし、その失敗を「無」として受け止めるだけでは、成長にはなりません。

なぜなら困難を本当に理解し、次の糧にしていないからです。

「誰でも失敗するし、失敗してもやり直せる」

そんな言葉をよく耳にしますが、本当に困難を克服したり立ち向かった人ほど、意外と口にはしない言葉かもしれません。

なぜなら、それ自体はとても当たり前で、むしろそこからどう行動したのかを問うからです。

「失敗を運が悪かった」と理解して、それ以上考えない人は、いつかまた失敗し、その度に背を向けて生きてしまいます。

結果、その人の生き様を見ると、世間的には成功者だったとしても、その中身は意外と脆かったりしています。

それでも、世間的に成功しているなら十分に評価されるべき人生かもしれません。

他人からとやかく言われる筋合いなどないからです。

問題があるとするなら、そんな曖昧な形で成功者になり、その人が周囲を巻き込んでしまうことでしょう。

なぜなら、困難に直面し上手く立ち振る舞えずに苦戦している人はたくさんいます。

立ち向かっている時は大変ですが、そこから学び、前に進むことで人は新しい価値観を持ってい歩き出します。

そんな成長過程で、困難に立ち向かうことなく成功者になった人がいれば、多くの人もそんな生き方を唯一の正解と誤解してしまうでしょう。

仮に全ての人が同じ方法で成功者になれるなら、その解決策も悪いものではありません。

問題はそこからも救われずに、依然として苦しい立場から抜けられない時です。

大人になれば、お金で解決できることも増えますが、根本的には何も変わりません。

一時的に困難を遠ざけたに過ぎないからです。

最近の風潮として、個人主義的なことを良しとする傾向がありますが、困難を個人だけで乗り越えることが重要ではなく、どう取り組んだのか、つまり協力することもここではとても重要です。

つまり、お金を出すことが唯一の解決ではなく、困難な状況にいる人にどう寄り添えるかがポイントで、それは共に苦労をすることだったりします。

失敗ばかりの人生は成功者ではありません。

しかし、困難に立ち向かう経験はたくさんあって、人の成功や苦しみもたくさん見ています。

だからこそできることがあって、それは卑屈になることではなく、もっと前向きに、時に頼もしくもあります。

「挫折」と「容認」の狭間で

挫折することで、人は方向転換を迫られます。

困難に背を向けるのとは違います。

挫折という現時点では解決できないという決定が、次に進ませるからです。

一方で人は他人から評価を受け、結果的に「容認」されます。

挫折経験が豊富な人は、簡単に相手を否定することはしません。

なぜなら、自身も同じように戸惑った経験があるからです。

だからこそ、待つこともできるのです。

しかし、挫折経験が少ないと、挫折を失敗と感じて、評価を下げてしまうでしょう。

それが転じて、挫折経験を避け、逃げ癖が付いた人を過剰に評価してしまうことがあります。

なぜなら、「失敗していない」ことを評価するからです。

しかし、成長過程での失敗は悪いものではなく、むしろ可能性を広げる正当な行動です。