「不倫」が社会的に認められない理由を掘り下げてみた!

 「不倫」とは何か?

世間一般では、人の道を外した男女の関係を指している。

つまり、既婚者の恋愛や社会的に望ましく無いような関係をいう。

なぜ「不倫」は無くならないのか?

例えば上司や部下という関係は、頼り頼られる関係が根底にある。

上司というのは、部下にとってこれから進もうとする社会人として一つの「憧れ」になりやすい。

つまり、「尊敬」できる相手であり、「もっと近づきたい」という感情を抱かせる。

警戒心を薄れさせ、相手を好意的に認めるベースが出来上がっている。

「よく頑張ったね!」

その言動は職場の何気ないものだったとしても、「恋愛感情」に切り替わるきっかけにもなり得て、もしもタイミングが合って「好き」と思ってしまったら、それこそ「不倫」に発展してしまうだろう。

ただ、社会的経験に乏しい部下が感情面で揺れ動いた時に、上司である先輩がいち早く「恋愛」ではないことをわきまえることができる。

「週末は子どもと出かけて…。結婚はいいぞ。早く本気で好きになれる相手を見つけることだ!」

人として尊敬することと、恋愛相手として好きになることは違う。

慕ってくれることは良くても、愛し合うべき相手ではない。

「愛」とはなんだろう?

「愛」を感情から分析することもできる。

しかし、今回は「人生」というものから考えた。

人は、自分の「人生」が何年続くのか知らない。

だから焦りするし、明日が来るとも思ってしまう。

確実に言えるのは、自分の人生を刻む「時間」は一瞬も止まることがない。

止まった時は、寿命が尽きた時だ。

誰かを想う時も、愛する時も、どんなことをしていても、時間だけは確実に過ぎてしまう。

多分、人は自分のためだけでは生きられなくて、どこかで誰かを欲する。

それは友だちかも知れないし、家族かも知れない。

でも、恋人や配偶者、子どもということもあるだろう。

愛する相手ができれば、それが理由となって生きることができる。

自分だけなら簡単に済ましたいことも、相手を思うから頑張れることもたくさんある。

何より相手も同じように思っているから、余計にそんな感情を互いに高め合うことができる。

「恋愛」が一方的な気持ちだとするなら、「愛」は相互で高め合うものとも言える。

「不倫」が社会的に否定される理由

「不倫」は「愛」と言えるのだろうか。

「愛」が相互に高め合うものだとするなら、「不倫」を続けた時に何が起こるだろう。

止めることができない「時間」を消費し、不倫関係が続いたとして、それこそ略奪でもしなければ「愛」にはなり得ない。

時に既婚者側は、不倫相手を優先するよりも、配偶者や子どもを守るだろうから、どんなに愛を貢いでも、「高め合う」という人生には繋がらない。

つまり、「一方的な感情を互いに満たしている」とも言える。

もっとも、「高め合う」ことができたとしたら、今度は配偶者や子どもの目線で、「愛」になっているのかが疑問視されるだろう。

互いに前向きな理由で離婚を選び、独身に戻って別の人を「愛」を育むことを誰も否定してはいない。

なぜなら、「愛」が成立するからだ。

でも、「不倫」の場合、不倫が上手くていけば、周りの誰かが傷つき、上手くいかなければ、貴重な時間と出会うべきはずのチャンスを無駄にしてしまう。

そんな意味でも、「不倫」が社会的に認められないのではないだろうか。

「家族愛」を育むのも大変!?

結婚して10年以上か経過すると、配偶者は居て当たり前の存在になって来る。

とは言え、自分の分身になるのでは無く、もっとも近い「他人」なのだ。

「当たり前」という気持ちで接すると、家族も夫婦の仲も殺伐としてしまう。

「コーヒーでも飲む?」「洗濯もの、干そうか?」

ちょっとした気遣いがあるからこそ、互いに距離感を意識することができる。

しかし、家族に隠れて不倫していたら、そんな時間があるだろうか。

24時間という限られた時間の中で、家族以外の誰かを想っていられる余裕がない。

こみちの場合なら、職場で仲のいい上司や部下がいたとしても、むしろそれぞれが自分らしい時間を過ごし、その中で瞬間的に合致した「タイミング」で、笑い合えたらいいと思ってしまう。

会社から最寄り駅までの数分間、上司と部下が一緒だったとしても、それは不倫関係ではない。

「明日は、彼とデートなのか! 楽しんで来いよ!」

そんな会話は、家族を持った既婚者には昔を懐かしく思い出せるきっかけで、何より部下が幸せになっていることに嬉しく思う。

間違えても、不倫に発展し、互いの時間を無駄にしたくはない。

例えば5年後、5歳年を取った部下は、本来なら「不倫」で時間を費やすべきではなかったはずで、仕事でも恋愛でも、もっと有意義な時間にするべきだったはずだ。

20代の5年、30代の5年、40代の5年、どんな年代だとしても、5年を無駄にしていい人は誰もいない。

平凡に思う日常しかなくて、特に誰か好きな人もいなくて、だから「不倫」でもよかった。

という動機は、自然な流れにも思える。

しかし、今は平凡でも、人は段々と老いてしまう。

「平凡」さえも当たり前ではなくて、努力しながら「守るべきこと」になっていく。

一人では心細い時にも、夫婦なら「愛」を持って互いを励まして、力を合わせて苦難を乗り越えることができる。

今は形式的な「夫婦」ばかりではなく、事実としての「夫婦」もあるが、そこに「愛」があって、互いを想うことができるなら、形にはこだわらない。

でも、不倫の場合、離婚して改めて恋愛に発展できなければ、いつかは「独り」になってしまう時が来る。

しかも、「若い頃」を無駄にして。

ここに大きなポイントがあると思う。

「今」だけを大切に生きていても、時が過ぎると段々と「費やした時間」に比例して「想い」だけが深くなる。

自分はこんなに「愛」しているのに、相手からは「愛」を感じられない。

でも相互に高め合うものが「愛」だから、自分が思う気持ちは「愛」ではなく「恋愛」で、「愛したい気持ち」を感じているだけなのだ。

きっと「不倫」は「愛への憧れ」を増やしてくれる。

でも、「家族愛」が簡単ではないように、本当に「愛」を育むのは難しい。

単に「憧れ」ているよりも、「愛」そのものの奥深さを肌で感じて生きられた方が、人生をより前向きにしてくれることに誰も異論はないだろう。