「人生が詰む」とは?
中高年と呼ばれる年齢まで生きて、普段は老いを感じなくても、仕事などで若い人に会うとその行動スピードに驚かされる。
でも帰宅し、父親や母親と会話をすれば、さらに遅くて戸惑う。
特に経済的な理由で「人生が詰む」こともあるけれど、それ以上に厄介なのが「詰んでしまった」を思ってしまうことだ。
例えばこみち家の場合、父親は全く働いていない。
しかも昔の世代の男性なので、家事も率先してはしてくれない。
何かすれば、周りが忘れずに「ありがとう!」と労う。
洗い物をしてくれたら。掃除をしてくれたら。
疲れたり忙しいかったりした時に、ふとそんな思いが浮かんでくるけれど、「片付けておいたよ!」ということはあり得ない。
つまり、もう父親が在宅介護の対象で、生活スケジュールを考える時に、彼の食事の準備が基点になってしまう。
一方で外で働くことが好きな母親は、男なら良かったのにと思うほど、仕事が合っている。
でも家事は器用さで卒なくこなすけれど、料理は得意ではない。
昨日も肉とじゃがいもを炒めた料理が食卓にあった。
でも、肉は火が通り過ぎて硬くなってしまったし、逆にじゃがいもはまだ芯があってシャリシャリしている。
その理由は明確で、母親は昔から味見をしない。
「味見しないと分からないでしょう?」とこれまでにも何度も伝えたが、こだわりらしく改善されないままだ。
両親との同居を前提に、彼らが彼ららしい暮らしをできる限り保とうと思うと、やはりいろんな面で問題が起こる。
妻にはあまり両親のことで心配させたくないし、でも両親との生活を今のままで維持し続けるのはもう難しくなって来た。
でも、父親に家事をしてもらうにもできることは限られるし、母親にもっと上手く料理を作ってと頼むのも難しい。
彼らをそのままにして、残ったいろんな問題をこみちがどう対処できるのかと考えると、「人生が詰んでいる」となってしまう。
両親もわざと今の生活をしているのではなくて、もうそんな生き方しかできなくなっていると言った方がいいだろう。
その意味では、父親が介護施設にでも入り、母親は自分の生活だけを考えることにできれば、かなり家族としてのアンバランスさは解消されるだろう。
「何もしないでテレビを見て過ごす」という行動が、どれだけ大きな負担になってしまうことか。
コストという意味だけでなく、疲れて帰宅した時にテレビをつけたまま居眠りしている人がいると、誰もが落ち込んでしまう。
これが趣味にでも没頭して、「凄いね!」と言える関係ならまた違うだろう。
自分のことでも悩んでいるこみちには、父親や母親に今の生活を続けてもらうことが親孝行だと思うし、妻にも大きな迷惑を掛けているから本当に苦労をさせていると思う。
また朝が来た。
今、朝食と弁当を作って、部屋に戻って来たところだ。