もしも「人生に行き詰まった」ならば

 なぜ「人生に行き詰まった」と感じるのか?

例えば、どこかの遊園地に行ったとしよう。

「「遊園地」が楽しい場所なのか?」と考える人は、その時の体験で楽しいか否かが決まる。

一方で、「「遊園地」に行けることが楽しい!」と思えたら、すでに楽しいと感じているから楽しくなる。

もっと言うと、行くのが楽しくなくても「誰が楽しそうにしている」とか、「遊園地で楽しそうな人を見て自分も楽しく感じる」とか、ことでも楽しくできる可能性がある。

「人生は楽しいのか?」「生きていて意味があるのか?」

そんな大きな悩みに答えを出そうとする時、「人生」そのものを考えるのではなく、「人生」に関わる自分自身の気持ちや可能性に目を向けたい。

めちゃくちゃ受け入れ難いことがあって、何もかもを捨ててしまいたいと思う瞬間は誰にでも起こる。

もちろん、その程度は同じではないけれど、こんなこみちだって幾つかの忘れたい思い出はあるし、酷く落ち込んだりもした。

直近では、今年の春先、妻に言われなければ、完全に「鬱」になっていただろう。

鬱っぽいではなく、感情を失ってしまう「鬱」に。

でも、そこまで心が追い詰められても、自分では気づかなかった。

と言うか、もうそうなっている自分に、自分が分からなくなっていたのだ。

このブログでももしかすると書いたかもしれないが、こみち自身若い頃に72時間ぶっ通しで仕事をやり切ったことがある。

72時間働いたレベルではなく、各1時間ごとに仕事があって、それを72個熟すと言うもの。

そして72時間後には、そのまま出来たものを打ち合わせに持って行き、そのまま納品しなければいけないと言う流れだった。

そんなことができていたと言う自分が、「鬱」になってしまうほど追い込まれるとは思わないだろう。

でも、人は簡単に代わってしまう。

だから落ち込んで身動きが取れなくなった時は、そのまま無理矢理に結論を出すよりも、一度休憩を挟むために誰かに相談してもいいし、何も考えないと言う方法を選んでもいいだろう。

先ずは考えられるところまで自分を回復させて、そこから考え方の幅を広げてみると、「詰んでしまった人生」からの解決策も見つかるはずだ。

少なくとも、「なぜ自分の人生が詰んだのか?」と悩んでいるなら、考え次第で「生きる希望」を見つけられる。

こみちが介護職を選んだのも、ある意味でそんな状況だった。

自分が何をしたいのか分からず、どんな価値や役割があるのか見つけられなくて、人生の行き詰まりを感じ始めていた。

そんな時に今まで考えたこともなかった介護職を知り、一歩を踏み出した。

その一歩は何か決意があった訳ではなくて、ダメ元感覚で、何も考えずに踏み出した一歩だった。

介護施設に行き、多くの高齢者がいるフロアに立つ。

その雰囲気は家にいる時とも、これまでの会社のオフィスとも違う。

「何をすればいいのだろう?」

それくらい分からないまま、介護職が始まった。

結論を言ってしまえば、介護スタッフの人員はどこの施設でも不足している。

何もできない未経験者だとしても、一歩を踏み出して志願してくれる人がいたら、大歓迎したいはずだ。

それくらい、求められている。

もしも、何をしていいのか、人生の行き詰まりを感じて悩んでいるなら、一度でも介護スタッフとして働いてみるといい。

それが1日だけで終わったとしても、人生への考え方が何か変わると思うからだ。

どんな人でもいつかは老いて、誰かの世話になる時がくる。

その大前提を知っているか否かは、人生を考える上でも大きい。

誰もが通る介護と言う部分を知ってみると、自分のためではない人生でも、他人には大きな意味も価値もあって、それを通じて自分の生まれた意味や活かし方を探して行けるだろう。

それこそ、人生が詰んだと思うなら、その残りの人生を介護スタッフとして捧げてみるのも悪くはない。

きっと、そう思って始めた介護スタッフでも、経験を重ねると新たな希望や目標が見えてくるだろう。

それまでの間、他人目線で働くことに徹してみるのもアリだと思う。