「逃げてはいけないのか?」という質問の答えとは?
何か悩み事に直面して、自身ではどうにも解決できないと感じた時に誰かに相談したとする。
「もう少し頑張ってみたら?」という答えもあるだろう。
「逃げてもいいんだよ」という答えも同じだ。
大前提として、個人的な悩み事は平均的な寿命80年も経てばもう問題そのものを覚えておくことの方が大変だ。
つまり、「時間の経過」という要因が、結果的に問題解決に導いてくれることがある。
ただし、その時の解決は、希望に沿ったものとは限らない。
むしろ、問題に触れることが意味をなさなくなってしまうというものだ。
「逃げる」とは何だろうか。
別の言い方をするなら「無視」とか、「拒否」「回避」などだろうか。
つまり、問題に対して自身から積極的に関わらないということ。
なぜなら既に自分では解決できないと思ったのだから、今度は「様子を見る」という解決策に変えるのだ。
人生が100年だとしても…
例えば悩んでいる人がまだ十代だとしても、いわゆる人生においての「現役」は40年から60年くらいではないだろうか。
その間に、病いや事故などで健康状態に変化があれば、その期間は縮まってしまう。
そんな風に考えると、自分が生きている期間はそう長くない。
つまり、悩んでいることが楽しいなら別だが、苦痛だと思うなら一度「放置」してみるくらいでもいいだろう。
5年経過するとかなり事情が変わっていて、10年が経験するとまた一から新たに取り組むくらい戻っている。
その証拠に中高年のこみちは、思春期や青春時代の思い出をいくつか覚えているが、それだって代表的なことに過ぎず、しかも詳細は後付けで補っている部分もある。
10代の悩みは、中高年になったら「あんな時代もあった」になる。
もしかすると忘れているかもしれない。
でも「今」はとても深刻で、24時間そのことに付きっきりになってしまうのもわかる。
ただ繰り返しになるけれど、年を重ねれば「思い出話」にしかならない。
20年も経過して、出来事を掘り返しても、「そうだっけ?」くらいになるからだ。
もちろん、嫌な記憶が頭の中から消えるとは限らない。
でも、「矛盾」や「わだかまり」を抱えて生きるのが人生で、中高年になってこそ言えるのは、過去よりも未来のために生きた方がいいということ。
中高年のこみちは、言っても自由に旅行できるのはあと20年だろう。
海外を旅するのはもちろん、日本国内を巡るとしても、あと20年の話だ。
その期間を過ぎると、足腰も弱って、それこそ誰かに世話してもらえば、少しは遠出もできるだろうが、自分から望んで行きたいとは言わなくなるだろう。
人は嫌でもそうやって年を取る。
だから、どんなに大きな問題だったとしても、「悩み」のはほどほどがいい。
実際、答えも根底は同じことで、貴重な時間をどう使うべきかに行き着く。
5年も経てば忘れているかもしれない悩みを、2年、3年掛けて克服するメリットがどれくらいあると試算できるだろう。
今後の人生に活かせる経験なら、数年を費やすことも無駄ではない。
少し興味深い話をすると、高齢者になると少し人格も変わる。
その理由は、行動力と決断力に関係する思考力が低下するからだ。
思考力の中には記憶力も含まれる。
嫌なことを覚えているから、人は悩むし考える。
でも、記憶が衰えてしまうと過去の失敗を活かすことができなくて、同じミスを何度も繰り返すことになる。
ここで大切なのは、悩むことも現役時代にしかできないということ。
老いるとは、段々と衰える思考力を自然と受け入れ、気づけば昔とは異なる生活リズムになることだ。
3度の食事、テレビ鑑賞、そして寝る。
究極を言えば、それだけになる。
ある意味、そこまで来てしまうと、もう好きなように生きることが幸せだ。
ご飯を食べながら「今度は刺身が食べたい」と思い、テレビを観て昔の思い出を思い浮かべる。
逆算的なことを言えば、老化を避けたいなら、適度な「刺激」を維持することだ。
その代表的なことが、仕事であり、他人と会うことだ。
中高年のこみちが言えるのは、人生はそんなに大きなものではない。
でも、よくよく見れば、実に細かな世界でもある。
刺激が薄く、人生なんてつまらないと思う時もありだろう。
それはそれで、人生がそんなに大きくないと気付けたことに意味がある。
でも、運良く成功した人よりも、失敗ばかりして落ち込んで悩んでいる人の方が人生をしっかりと生きていると分かる。
「なぜだろう?」
そう思った時に、人生の大きさではなく、細かさに気づく。
「ある場所に行く」ということでも、時間や目的、手段、メンバーなどで意味も価値も変わる。
自分で悩んで解決しない時も、時間や方法、相談相手など、自分と関係する事柄を変えてみると、解決に変わる何かと出会えるかもしれない。