「自分の人生」を評価するタイミングとは?

 「今」ではない!?

正直なところ、今のこみちが幸せなのか、こみちには判断できません。

汗ばむ時期、洗濯機を使い、まだ中身を取り出していなかった時に、珍しく母親が自分たちの洗濯ものを持って洗面所の方へ歩いていたので、「もしかして」と思い慌てて洗濯機に向かいました。

「やりっぱなし!」

気を利かせたつもりが、母親のひと言にダメージを受けます。

もう洗濯機が空いているのか。稼働中の音が鳴っていなかったのか。

配慮するポイントはいくつもあったはずです。

こみち自身の「誰も使わないし、もう少し後でもいいか!?」という怠け癖を正当化するつもりはありません。

しかし、逆の状況で同じような言葉を使うと、母親は憤慨してしまうでしょう。

なので、忘れていた時も「そんな時もあるよ」とフォローすれば、「こっちだって忙しいんだから」と謝るどころか、逆に配慮や共感を求めてきます。

そんなことがある度に、こみちとしては「凹む」のです。

嫌なことをされたからではなく、他人を思いやれないと前に進めないのに、今の家族はみんなどこか我先にという感じになっています。

「たくあん」が一切れ残っているタッパーが冷蔵庫にあって、以前から何度かそんなタッパーを洗って来ましたが、昨日も当たり前のように残されています。

少なくとも、自分の範疇にある時に起こったら、それは役回りとして「処理する」のがマナーでしょう。

いつも朝食を作っていますが、それだって「今日は私が代わるよ」という人もいなければ、食べた「食器を洗う」と言ってくれることもありません。

むしろ、「自分の食器を洗っている」と何か義務を果たしているという態度もあって、こみち自身は飯炊きジジイにでもなったのかと感じます。

今の状況は異常!?

こみちがフルタイムで働かなくなり、その分家事をしているのですが、その流れの一端には両親の生活をカバーする意味も含まれます。

今まで家事をしてくれた母親も、最近は料理が負担になっていて、その背景にはテレビを観ているだけの父親をフォローしている部分もあります。

母親が父親の世話焼き、それが時に過剰なこともあって、こみちから見るともう父親のことを二人がかりになっているかのようです。

しかし、手を出されることが苦にならない父親は、それこそ靴下さえ履かせてもらいたいタイプなので、母親があれこれといろんなことに手を出して、収集がつかなく無くなっていても、父親は自分のことでさえ処理しません。

それで母親は口癖みたい「頭がいっぱいで余裕がない」とすぐに頼ってきます。

「もう少し父親にも動いてもらえば?」

そんなアドバイスは欲しくはなく、むしろ父親の世話焼きをするために、他のことを任せたいという印象です。

今後の生活

嫁がこの先をどう思っているのか心配ですが、例えば母親が仕事を辞めて完全に家事だけになったら、それこそ両親は年金だけの収入です。

どれくらい貯金しているのか分かりませんが、月額15万円必要な介護施設に入るだけの準備はできていないでしょう。

言い換えれば、テレビだけを観て過ごす父親の生活を母親には担保できるはずはなく、だからこそ全額は無理でも内職をしたりして稼ごうとする姿勢を見せてくれないと、好きなことだけをしてきた父親や母親を全面的に負担する気にはなれません。

そう思うと「やりっぱなし」と言われてしまう状況に違和感を持つこみちの心境も理解してもらえるのではないでしょうか。

父親も母親も「今日」をイメージできても、「一年後」は全く想像できないようで、それは母親が仕事を辞める時期を考えても、今の生活では継続できないことが予測できます。

人生を評価する時期

これはこみちの個人的な考えですが、人生を評価する時期は「息を引き取る時」だと思っています。

つまり、生まれた後、良いことも悪いこともあって、時には悪いことが先行するような人生でも、晩年に良いことがあれば、最終的には「良い人生」ということです。

その意味では、特に晩年がどれだけ大切な時期となるか分かります。

老化によって、持続力も無理も効きません。

晩年に慌てても若い頃のように一新できるパワーは無いので、計画的にコツコツと「今日を生きる」ことが大切になります。

なぜそんなことを思ったのかというと、こみちもそうでしたが、若い頃に「成功体験」をすると、それを当然に感じます。

そんな時こそ、もう一度振り返ることができれば良いのですが、なかなかそう思える人は少なくて、だからこそ成功も長続きしません。

そして、一度流した「成功」は戻ってきませんし、別の成功が来るのかも定かせはありません。

だからといって人生を投げやりにしてしまえば、肝心なチャンスをまた逃してしまうでしょう。

「継続は力のあるなり」という諺がありますが、今にして思えば「才能」とは「継続する力」ではないかと感じるほど、超一流は選ばれた人かもしれませんが、「プロ」までは継続していればいつか届く距離にあると感じます。

結局、その継続に耐えきれずに諦めた人には「その夢が叶わない」ということ。

例えば、写真を下絵にトレースすると、その線画だけでも実物そっくりに見えます。

一方、写真を見品にフリーハンドで描いた線は、なぜか実物には見えません。

その違いに気づいたのは十代の時で、トレースという手法を使えば簡単に「写し取れる」ことを知った一方で、「フリーハンド」で実物感を出すのは簡単ではないと知りました。

その後、いろんな時期を経て、その間も絶え間なく絵を描き続けて、最近になって「実物感」の手応えが見つかりました。

言い換えれば、「プロっぽい」なら3年も掛かりません。

でも「プロ」は最低でも3年、こみちのように鈍いタイプは10年、20年掛かってやっとできるようになります。

右のイラストは、こみちが苦手としている「女性」です。

男性に比べて、肌の印影が少なく、そのわずかな違いで印象が一変するので、とても繊細な技術が必要になります。

「肌」をしっかりと描くのはとても試行錯誤が必要で、色に対する知識や筆使いなど、いろんな面から少しずつ実力がついて、一枚の絵になります。

まだまだと言えばそうなのですが、これでもこみち自身はかなり進歩が感じられる成果です。

つまり、いきなりできないから「才能がない」という判断は不適切ですし、3年くらいで成果がなくても、5年粘れば手応えがあることも否定できません。

どこで諦めるのか?

それが息を引き取る時だと思うのです。

その時まで、「自分にもできる時が来る」と継続した人だけに、成果が待っていると思いたいです。

このイラストが100点だとは思っていません。

さらに、もっと表現したい要素があって、それはまだ表現できていないからです。

良い雰囲気の絵でも、別のもっと良い雰囲気の絵と比べれば、見劣りしてしまうのは、そんなまだできていない要素が欠けているからです。

でもそれは途中段階なので、自己否定する必要はなく、でもどう違いのか、何をすれば良いのかとあれこれ考える過程こそが、「生きている」ということでしょう。

こみち自身、今は不幸に思えても、この先に幸福が待っていると思って、今日も感謝して生きたいと思います。