「当然」という「義務」を考える
長い人生経験からして、「優しくされたら、優しくできる」という人は多い。
さらに、「優しくして、優しくされたい」と思う人は、もう少し寛大だ。
でも、「優しくしても、優しくされない」と感じて、「優しく」し続けるには覚悟が必要だ。
例えば、看護師のような職に就いていて、いつでも献身的にできる人なら、どんな時でも「優しく」できるだろう。
でも、親の「介護」という問題を考える時に、妥協点を見つけることさえできない状況で、「優しく」できるだろうか。
具体的には、子どもが親の面倒を看ることを当然と考える親の場合だ。
しかも、その親が子ども時代に自分の親の介護を他の兄弟姉妹に委ねて、放棄していたらどうだろう。
「あの時のできなかった気持ちを忘れたの?」
できなかった理由や背景は人それぞれにある。
当時、どうしても達成したいことがあって、それが親の介護をすること以上に優先される状況だとしたら…。
程度こそ違うが、兄弟姉妹もまた同じ心境で、経済的時間的に負担を強いる介護は、現役世代にとって大きな負担だ。
「優しさ」を「介護」に置き換えたなら、「他人のシモの世話」を拒否する人は、自身の世話を誰にしてもらうつもりなのかということに行き着く。
お金を払って介護士に頼む。
それも方法だろう。
しかし、介護福祉士の資格を持つこみちが言えるのは、介護士の全てが献身的とは限らない。
むしろ彼らが介護士として働けるのはベースに「雇用関係」があることから始まる。
その上で、思いやりや過去の経験、体験から「尽くす」ことを仕事にしている。
つまり、「お金を払う」だけでは、作業をしても、その人に尽くすとは限らない。
子どもが親を介護する時に、自身で介護する方法と、施設に入れる方法がある。
一人の人を施設に預けるには、「月額10万円以上」必要で、多くは親の年金で賄われるだろう。
つまり親世代が、月額あたり10万円以上の年金をもらっていなければ、そんな働き方を計画せずに生きて来たなら、施設に入るにも子どもの経済的負担になる。
いろんな事情で、その日暮らしを続けるしかなかったというケースもあるだろう。
しかし、年金で10万円以上という目安は、子どもの負担を大きく変える基準でもある。
こみちの場合、介護士になって多くの人の思いを知った。
でも、親の介護をできるかと聞かれたら、施設という選択をするだろう。
それが親不孝なのかと聞かれたら、親不孝なのかも知れない。
でも、当たり前に尽くされるのは、当然ではないと思う。
大人になって感じることだから、緻密に計算して損得で判断している訳ではない。
だからこそ、親としてできることが何かを考えなかったのなら、そこに「献身的」さは伝わらない。
学術的、介護的に興味で、「なぜ人に尽くせないのか?」と感じる。