なぜ「欲」を作ったのだろうか?
「あともう少し」という「欲」が、人間社会の根源にある。
社会的に生きることに疲れた人は、「欲」を失う。
「自分なんて」と自己否定することで、生命の根源となる「欲」を放棄する。
その結果、生活はミニマムになり、活動量が低下する。
しかし、心臓は動き続けているし、寿命という持ち時間も絶えず減り続けている。
活動が完全に停止することが寿命の尽きる時とするなら、トータルでどれだけ活躍できたかが人生の豊かさに大きな影響を与えるのは自然の流れだろう。
「恋愛」や「愛情」を「欲」から考えると
なぜ人は恋をするのかと考えたことはないだろうか。
恋人と友人の違いは何か。
少し強引な言い方をすれば、どちらにも「欲」が関係していて、その「欲」の現れ方に差がある。
もちろん人によって異なる感情ではあるが、より自分の「欲」に近いのが友人で、恋人になるとその相手目線で理想を求める「欲」になる。
その意味では親友という分類は、恋人に近い存在と言えるだろう。
もう少し踏み込めば、自己犠牲に於いて差がある。
つまり、自分の時間や手間、経済的負担など、自分が持ち得るものをどれだけ相手に捧げられるかだ。
「お金を貸して欲しい」と頼まれた時に、その金額に差があるのは、友人という位置付けと恋人とでは違う。
なぜなら、返してもらえない時の落胆も、両者では受け止められる限界や覚悟が違うからだ。
「愛情」を学ぶことはできるのか?
今回のメインテーマなのだが、「愛情」とは誰かに対して「幸せ」であって欲しいという気持ちを持つことだとするなら、「愛情」を理解するには「幸せ」をも理解していないと始まらない。
そして「欲」の部分で、相手を思う気持ちも必要となる。
「幸せ」を理解するには、「現実」と「理想」を明確に把握しないといけない。
「幸せ」はよく分からないが、「今に不満がない」という感情だけでは「愛情」を持つことは難しい。
こみち家の父親は不満を持たないタイプで、本人は愛情が薄いとは思っていないかも知れないが、周りから見ると「自己中」に思える。
「自己中」とは、「欲」が常に自分基準で、相手に対して思うことができないタイプだ。
偶然にも自己中から生じた「欲」が「愛情」と一致し、相手が「こんな意味でしてくれたのだろう」と想像力を発揮してくれたら、それが「愛情」に見えることもある。
しかし、「自己中」同士に愛情が生まれないのは、一時的には問題にならなくても、段々と波長が合わないことに気づき出し「性格の不一致」という結論に至るからだ。
全く「欲」がなければ、そもそも「愛情」も起こらない。
多分、人間として生まれた時に程度に差があるとしても「欲」の根源を持っている。
しかし、生まれてから「愛情」に触れなければ、自分で「幸せ」を理解できないタイプはそのまま大人になってしまう。
その意味では、親が与えてくれる「愛情」も完璧ではなく、でも不完全でも届けようとする様を見て、実は子ども自身で理解が進むのだと思う。
例えば片親で育った人は、「家族」に対して当然あるべきものとは感じずに、家族で絆を守りながら家族であろうとする。
だからこそ、両親で育った人に比べて、親の大切さや家族の存在を深く受け止められる。
「なぜ親から愛されないのか?」と考える人はまだ「愛情」の本質を理解していない。
なぜなら、「なぜ親から」ではなく、どこかのタイミングで「なぜ自分は」に変化するはずだから。
「愛情」には「幸せ」が必須だとするなら、その「幸せ」を親に示すことでしか親は愛情を学ぶことはできない。
そうだとするなら、自分が社会的に成功し、多くの仲間に囲まれて、「幸せ」を実感することが大切だ。
そして、成長することで親にも「幸せ」の一片を感じてもらうことができる。
その中で他人を愛することの意味を親もまた見ることで理解する。
自己中だけでは幸せになれないことを知り、だからこそ人は愛情を他人にも注ごうとするのだ。
裏切りや嫉妬はどこにでもある。
特に「幸せ」を理解していないと、感じることが多い感情だろう。
世間にはそんな人もいる。
でもそんな人も幸せになりたいのが本音で、ただまだ「愛情」が理解できていないから「自己中」的な思考に走る。
もしもまだ自分が未完成なら、きっとそんな相手まで幸せにできる力はないだろうから、それまでは距離を置いて過ごすのが互いのためだ。
そして自身が愛情と幸せを手に入れた時に、まだそこに至らない相手と出会ったらなら、例えば自身の会社で採用するとか、幸福になれるチャンスを作ってあげることだ。
残念ながら、「欲」という感情そのものを個人で作ることはできない。
だとしたら、欲を根源とする愛情も同じだ。
教えられて分かるものではなく、自分で理解することで初めて感じられる。