中高年の戯言 「最強」など存在しない!?

 人間社会では「時間制限」がある!?

社会人になって仕事をする様になると、特に仕事上で目立つことが増えるほどに支持されることもあるが、アンチも増える。

当時のアンチは、大抵が自分の仕事と被る存在。

つまり、自分が評価されるとは、そのアンチは立場を追われるということ。

だからこそアンチは決して成果を認めてはくれないし、供すれば存在が消えていることもある。

こみちはバイク少年だった。

主にツーリングをして、旅先で絵を描くことを学生時代の趣味としていた。

まだその頃はカメラなど買えないし、スマホなんて便利なものはなかったから、何かしたいと思ったら何よりもその知識と技術が無いと始まらない。

絵を描くことが好きな人でも、スケール感を正確に描けるのはかなり上級者だろう。

道沿いの街並みを描くとしても、個々の住宅に生活があって、人が生活歴を重ねている。

そこまで表現するとなると、もう石膏デッサンの技法では描き切ることができない。

何が足りないのか。

それが人生経験だと知ったのは、やはり中高年になってからだろう。

話を当時のサラリーマン時代に戻すと、「才能」のあるなしや評価は見え方次第だと思う。

しかし残念ながら現実は残酷で、評価されないともうそのまま居残ることもできない。

その意味では、こみち自身、誰かに否定されて、もう本当に行き場がなくなるまですがりついた経験がない。

つまり、それだけ自分を壊さないように、生きて来たということだ。

とは言え、こみちが居たことで、やはり誰かが「退場」を言い渡されて、残念な思いをしたのだろう。

そんなことを思い出していたら、学生時代の苦い経験が甦って来た。

それは第一志望にしていた大学受験で、試験を終えて会場を出ようとした時にある受験生から話掛けられ、「キミ、凄いね。驚いたよ!」と言われた。

さっきまで同じ会場で、デッサンの試験を受けた一人だと知った。

「嗚呼、どうも」

「あそこまでこだわる人初めてみたよ」

「嗚呼、どうも」

しかし、こみちはその本命の試験で不合格になった。

もしかすると、声をかけてくれた受験生は合格していて、憧れのキャンパスを歩いていたかもしれない。

芸術的才能だけでなく、サラリーマンとして評価されるか否かは、その審査を誰がしているのかも大きい。

確かに「模写」する技術はテクニックだけど、何をどう切り取るかは、描き手の意識が変わらないことには変化しないし、審査員が変わらないと「評価基準」も昔のままになる。

昔、ある美術好きな人が、「私は美大に行っていないからデッサンできない」とコメントしていた。

でもデッサンを完璧にマスターすることはまた別の才能だと思うが、こみちレベルの画力なら毎日一枚3年続けたら誰にでも到達できるだろう。

つまりそれをするかしないかの話で、「才能」の領域ではない。

「絵」だけで生きられないのは、まだまだ「才能」の領域ではないからで、少なくとも本当に才能がある人が描くと、明らかにレベルが違う。

それは写真みたいという表面的な評価ではなく、そこに強いメッセージが込められていて、感情までもが揺さぶられる。

ここだけの話、石膏デッサンで形を追う人は途中で進歩が止まる。

差が出るのは、その石膏像をどんな思いで作ったのか、作者の感情までも描こうとした時だ。

なぜなら、そのデッサンに模写された造形が描かれている作品と、見た時に感情まで揺さぶられる作品を並べたら、誰にでも差が分かるだろう。

かなり脱線したけれど、評価基準が進化しない社会のままでは、才能も頭打ちになってしまう。

つまり、なぜ「最強」なのかを考えた時に、何も本当に強いとは限らない。

むしろ評価基準に合っているに過ぎない。

コロナ禍で社会が数年単位で停滞すれば、本来なら評価されただろう才能が退場となり、むしろ退場でもおかしくない存在が脚光を浴びる。

あと30年早く気づいていたら、こみちもそんな才能ある人になれたのかもしれないが、残念ながら中高年となり、残された人生で何ができるのかを逆算しながら今日を生きている。