「介護」とは何か?
こみち自身も介護士になるまで、「介護」がどんなものか分かっていませんでした。
イメージとして、「介護」を「おもてなし」と捉えていた反面、「世話」と認識していた部分もあります。
ただ、年を重ねていくと、加齢によって人は今までできたことができなくなってしまいます。
能力低下の意味もありますが、非効率になることで手が回らなくなってしまう側面もあります。
具体的には、硬い瓶のキャップが開けられないとか、重い荷物を持てないとか、短時間で一気に済ませてしまうことも苦手になります。
単発の作業を比較した時に、10年前と比較して衰えていない場合でも、同時に複数のことをすると途端にできなくなってしまうのも特徴です。
段取りをイメージしたり、タイミングを合わせたり、「マイペース」が保てない場面になると「加齢」を感じさせ、それを補うために「介護」が必要となります。
イメージとして、「介護」というと「オムツ交換」みたいな作業をイメージするかもしれませんが、実際には「午前10時に必要な準備をして待ち合わせ場所に行く」というような複数の要素を含んだ行動から段々と難しくなっていきます。
つまり、「介護」とは難しくなっていく一連の行動を支援することとも言えるでしょう。
「優しさ」をどう学べばいいのか?
「優しさ」とは何かを考えることは、「介護」を理解する上でも大切です。
なぜなら「優しさ」を甘やかすことと考えると、「介護」も支援ではなく、役割の喪失になるからです。
「何もしなくていい」ということを「介護」と勘違いし、回りで全て代行してしまうような介護をするのも、「優しさ」を理解していないから起こるのです。
かと言って、「介護」を「支援」と捉えるあまり、監督者となってあれこれと指示することを「介護」と誤認しているケースもあります。
「何でできないの?」「早くして」などの言葉は、介護が困難になる一連の流れをサポートするという役割を理解していれば口から出るはずはありません。
むしろ、「なぜできないのか?」を介護する上での課題と認識し、支援の内容や方法を考えることが「介護をする」という一歩になります。
つまり、「優しさ」を「介護」という観点から考えるなら、「相手の負担を軽くできること」に繋がります。
「荷物を持ってあげる」「ドアを開ける」などの行動を優しく感じるのは、「持つこと」や「開けること」を代行したという部分よりも、その人の精神面で負担を軽減させた部分に意味があります。
つまり、「できたこと」だけが優しさに繋がるものではなく、存在を認識し、その心情を察して手を伸ばすことも、優しさに変化します。
身勝手な行動に見える行為しかできない人は、「優しい気持ち」を理解していないのではなく、「相手の立場」や「状況」を理解するのが苦手で、場合によっては自身のことも目の前に起こった時にしか判断できないのかもしれません。
「なぜそこで優しくしてあげないのか?」
こちらから見るとそんな風に感じる場面で、時に優しさを感じさせない行動をしてしまうのは、相手がどれだけ支援を求めているのか、その程度やタイミングはどれくらいなのかを判断できなくなってしまうのでしょう。
父親を大人の発達障害と感じてしまうのは…
こみちが両親と同居して気づいたのは、父親が程度は別としても発達障害に似た症状を持っているということ。
仕事を続ける母親が「ただいま」と帰って来ると「おかえり」と答えることはできます。
しかし、「疲れただろう?」とお茶を出したり、荷物を持つなど、別に母親ができない訳ではないけれど、自身の気持ちに寄り添った行動を父親が見せることは皆無なのです。
老いているだけに、若い頃と同じ仕事をこなすのは母親にとっても負担が増しているはずで、それは父親自身が日常生活で感じることを踏まえれば、母親だってそうだろうと感じるのは難しい話ではありません。
立ち上がってお茶を淹れることができないとしても、「何か入れようか?」とか「何か飲んで少し休めば」と寄り添う言葉は幾つでもあります。
世代的な認識の違いがあると言うことも考えられるのですが、母親の作った料理を先に一人で食べ始めたり、自分の食器さえ洗えば、母親の分など見向きもしないと言う感覚になってしまうのは、正直言って不思議に感じます。
夫婦特有の感覚もあると思って、「なぜ?」と直接的に問いただしたことはありませんが、母親からは「優しさ」を求めていることを聞きました。
少し興味深いエピソードとして、冷凍庫のアイスクリームがあって、父親は暑がりで甘いもの好き。
高齢者の両親と中高年のこみち夫婦しかいない家では、アイスクリームを買ってもその時に食べた後、次の食べるのはいつになる分かりません。
箱で買い残ったアイスクリームがあっても、数日で無くなる方が珍しいくらいです。
しかし、日が経てば一つずつ減って行くのは、誰もいない日中に父親がこっそりと食べていたからでした。
もちろん食べるなとは思っていないのですが、食べたなら次回くらいはみんなが食べたいだろうアイスクリームを買って来ると言う行動があっても不思議ではありません。
奢って欲しいと言う意味ではなく、みんなを思って行動すると言う「優しさ」を感じたいと思うのです。
しかし、「お金を出すから買って来て!」とは言ったりしますが、自分で行動することはしません。
「お金を出す」ということを「優しさ」と解釈しているなら、それはまだこみちたちが子どもで稼げない時代なら分かります。
しかし、年金生活者となった父親に「お金を出す」と言われても、むしろ心配になってしまいます。
歩けば数分の場所にコンビニだってあるので、歩いて行けとは言いませんが、自分で買ってみんなに振る舞うという行動を期待したくなります。
でも仮に自分で買って来ても、先に自分の分を食べてしまい、残りを「食べていいぞ」とは言えても、みんなが揃った時に「アイスクリームを食べないか?」とそこで箱を開けることができません。
アイスクリームが美味しいかどうかではなく、父親がみんなを思って行動したことを家族は「優しさ」として理解するのですが、そんな優しさを示すことが出来ない父親なのです。
夕飯を食べると母親もすぐに自分の部屋へと戻ってしまい、こみち夫婦も自室に行くので、リビングには父親だけがテレビを観て過ごします。
朝起きてご飯を食べた時から食事以外、テレビを見て、時々病院に行くことだけが父親の日常生活です。
「運んで」と言えばしてくれないこともないのですが、状況から判断して自分から行動することができないのは、一見すると高齢者に起こる加齢の症状にも感じますが、若い頃からその傾向にあったのなら、何らかの意味で「大人の発達障害」に似た症状を疑ってしまいます。
相手の立場や状況になって、実際に行動することが不得手な父親は、クリスマスケーキのイチゴを先に1つ摘んで食べてしまうのです。
単にわがままな性格かと思っていましたが、そうすることが不適切な行動だと理解できないところがあります。