「お笑い芸人」の話術から学ぶこと
改めて感じるお笑い芸人の「話術」は、素人と比べると歴然です。
素人の中にも「話好き」の人がいて、喋り始めると止まらないという方をみるとある種の才能だと感じます。
両者の決定的な違いは、お笑い芸人が「テレビ」という限られた時間の中で、自身の役割を果たして来たことにあるでしょう。
つまり、YouTubeの撮影に比べてテレビの場合、「ハイ、ここで喋って!」というタイミングで、簡潔に伝える話術が不可欠です。
実際、お笑い芸人がYouTube に出演されている時でも、限られた時間の中に無数の言葉が詰め込まれていて、それが「よく喋る」とは映らないところに凄さがあります。
というのも、「よく喋る」と思う背景には、たくさんの言葉が使われているだけでなく、聴いている方からすると使われた言葉の内容よりも、存在に意識が向いてしまっています。
つまり、自然と話が伝わってくるのではなく、意識しないと何を話しているのか分からないということでもあります。
「よく喋る」人も凄いのですが、テレビタレントとして活躍された方は「話を伝える」ことに長けています。
「強い言葉を使わない」という暗黙のルール
お笑い芸人の喋りを観ていて、そこで使われる言葉はどれも「強い言葉」ではありません。
ここでいう「強い言葉」とは、聞いている人が不快に感じたり、予備知識が必要だったりする言葉を指します。
例えば、初対面の人と話す場合、その人がどんな人なのかわかりません。
釣りが趣味だったり、料理をするのが好きということを把握していると、それだけ話題作りが簡単になります。
一般的なコミュニケーション方法としては、そんな事前情報を活かして接することになりますが、「テレビ」というメディアでの話術では「知っていないと内容がわからない」ということが少ないはずです。
よくCMを挟んだ時に、少し前から短い映像が流れたりするのも、そこから見始めた人にも最低限の内容が伝わる工夫と言えるでしょう。
つまり、持ち時間5分でという場合に、テレビならそれこそ「はじめまして」から始めることになります。
一方でYouTube の場合には、顔馴染みになった視聴者や、視聴者側でいろんな動画を漁り、チャンネルの内容を把握してくれます。
最近、YouTube で「ドッキリ」の企画を見つけます。
中には「本当に怒るのか?」というドッキリで、失礼なことをして反応を撮影するというものまで存在します。
「怒った時の人間性」を晒すということは、屈辱的な言葉を浴びせられた時と同じくらいその人の人格を傷つけます。
というのも、「怒り」には様々な葛藤があった後に出てくるもので、ある意味で「人を試す」という失礼極まりない行為だと思います。
「ドッキリ企画」だから許されるというものではなく、テレビでは「お蔵入り」するはずの内容をYouTube では当たり前のように撮影し、それがコンテンツ化され、あたかもテレビよりも面白いと思ってしまうのは傾向として危険です。
「ウケればいい」ということでは成立しないのが「テレビ」だとすれば、それよりもルールが緩和されたYouTube の方が面白く見えるのは当然でしょう。
YouTube の傾向として、暴力や性という「刺激的なシーン」をコンテンツに用いたチャンネルが増えています。
テレビでは視聴者からのクレームや、スポンサーのイメージもあって、制作サイドで検討されるべき内容も、YouTube ならすんなり放映できてしまいます。
ただ、刺激はどんなに強くても感覚を麻痺させ、もっと強くしなければ感じられなくなる傾向があります。
つまり、今は面白いYouTube の動画もある時から「刺激」ではなく「本質」へと意識が変わって行くでしょう。
そうなると、テレビではできなかったことをし始めてウケていたチャンネルが淘汰されて、実力で人気を取るチャンネルが残ってくることになるのでしょう。
テレビで「強い言葉」や「刺激的なシーン」を避けて来た背景には、その路線では息詰まることがあるからです。