「事実」を告白するという意味
何か悪いことをした時に、周囲からの要望を受けて人は経緯や心境を伝えるために「会見」をする。
その人の目線から理解した「事実を告げる」ことでもある。
しかし、事の発端部分で、その人が知っていた情報と客観的に知り得た情報に違いがあるなど、時として「会見」だけでは傍聴者に理解できないことも起こる。
ある「言葉」を浴びせられたことで、一気に感情的になり、自身の行動を抑えることができなくなったケースでの釈明事例では、その「言葉」自体には特に気になる要素が見出せない場合、状況説明からではどうにも事の成り行きが掴めない。
ところが、もう少し掘り下げて、例えばその「言葉」との出会いに何か特別なエピソードが含まれていたような時、一般的にはそこまで「強く意味のある言葉」でなかったとしても、本人の感情を著しく動揺させる場合もある。
ここで重要なのは、「事実を告げる」という場合でも、「事実」が「真実」であるとは限らないことだ。
あくまでも本人の立場では「事実」だと信じ、それに基づいて行動したに過ぎない。
「自身の過去」を告げるとは何か?
例えば、自身の失敗談をコミュニケーションの意図で持ち出すことがある。
新人教育などの場面で、大先輩にもあっただろう新人時代のエピソードを聞けば、そこに親近感を感じたり、場の緊張感が緩和されるなどの効果が期待できる。
一方で、「自身の過去」を自分から晒さないことが求められるケースもある。
例えば、まだ人間として未熟だった頃に、全く無関係の相手に一方的な迷惑を掛けてしまい、その事自体は和解や解決したとしても、後々になって「失敗談」としてではなく、「美化された話」として持ち出すような場合だ。
最近で思うのは、「不良時代」のエピソードだろう。
若い思春期故に人間として未熟なのは、ある意味で仕方がない。
だからこそ、子どもを育てる「親」の役目として、自身の言葉や社会を通じて「学ぶ」機会を与えることが求められる。
幸い、こみち自身はグレることがなかった。
でも全く無関係な世界だったのかというと、そうではない。
特に中学時代には、いわゆる「不良」が同じ学校にいたし、彼らが他校と揉めているという話を耳にしたこともある。
こみちがグレなかったのは、父親から「お母さんを泣かせてまで貫きたいのか?」と諭されたことがあったから。
その頃、大人への反発が芽生えていて、「これは大人でも間違えている」と思った話を父親が聞いた時に言った言葉だ。
世の中は正しいか間違えているのかだけで動いていない。
そのことを示し、こみちの考え方や行動に、新しい視点を与えてくれた。
そんなこみちは、個人的にこんなイメージを持っている。
例えば、個々の人間にはいくつかは分からないけれど、一般的には「100個」とされる記憶させられる「特殊なボール」が用意されていて、生きる中で印象的な出来事があるとその「ボール」に記憶させていく。
老いた時、「自分」とはどんな人間で、どんな生き方をしてきたのか、それは自分だけが見ることのできる「ボール」で知ることができる。
高齢者に多くなる認知症などは、記憶させたボールから「思い出」を呼び出せない状態を指している。
個々にとって、眩しいくらいに輝いているボールもあれば、真っ黒に塗りつぶされたボールもある。
人によっては、自分でも触れないほど熱を帯びたままのボールもあるだろう。
「反省」とは、これからもう二度と自分でも触れられないほどの「ボール」を作らない覚悟とも言える。
中には、他人が教育の中で注意深く避けている「選んではいけない道」を選び、自らの意思でそんな「ボール」を持ってしまった人もいる。
注意したいのは、どんなに社会的に出世した時でも、人として恥じるべき「ボール」を自分から得意げに晒さないことだ。
そして、もしも外部から指摘されるような時には、真摯に事の経緯を告げ、今はそうではないことを自身の覚悟して律し説明するべきだ。
そうでなければ、未熟な選択肢を今でも変わらず選んでしまうことになる。
何のために反省したのか、むしろ「反省」できないほど変わっていないのか。
よく刑事裁判で「更生の余地」という言葉が使われるが、そこには「ある事実」を知ればもう同じような選択をしない人になるだろうという期待だ。
最近気になるのは、何かで1つが認められた時に、自身の過去まで全てが認められたと思う行為に違和感を覚える。
仮に1つが肯定された時でも、過去の本来なら伏せられるべき事実を、まるで美談のように話したり、何もかもさらけ出すことで明朗な人間だと思う人がいる。
しかし、忘れていけないのは、当時もその行為で「残念」な思いをした人がいて、場合によってはそこから人生が変わってしまったということもある。
だとしたら、「反省」は今後の誓いではあっても、過去の清算にはならない。
つまり、何も知らない人から人気が出たとしても、その流れで「過去」をさらけ出すのではなく、個人としてしっかり見つめ続ける「大切なもの」にしなければいけない。
商才のないこみちも生きている
絵を描くのが好きでも、それで稼げるわけではない。
むしろ、下手でも路上に出て「似顔絵師として行動する人」の方が稼げるだろう。
スキルを磨くということは、儲けられる条件や環境を整えるということであっても、それ自体に稼ぐ能力は含まれない。
つまり、商才に長けた人は、スキルが豊かかどうかに前に、儲かる環境や状況に近づいていける人だ。
「お金をくれるなら、街中の人通りでも勝手に大の字になって寝転んでみせる」
スキルというよりも、モラルとか良心とか、恥じらいの話だろう。
そこまでして「お金を稼ぎたいか?」という気持ちが強いと、寝転んだりできない。
しかし社会人になって、理不尽なことは幾つも起こる。
それに出くわす度に、「こんな会社辞めてやる!」と言っていたら、働ける場所など見つからない。
100%はないから、自分にとって我慢できるなら働けば良いという判断になる。
ただ、人間社会が面白いのは、ときどき「正論」が貫かれる時があること。
つまり、曖昧に許されていたことが、いきなり「アウト」と判断されて、全てを失うことだ。
本来なら、「アウト」な部分だけを改善すればいいのに、もう社会は「全部をアウト」にしてしまう。
一見すると「スゴいこと」も、見方を変えれば「愚かなこと」になる。
それは人間の感情に乗っかった評価ほど、「条件」や「情報」が加わることで、一気に見え方が覆されるからだ。
例えるなら、ボクシング世界チャンピオンと総合格闘技の世界チャンピオン、どちらが強いのかという話題だ。
よく言われるのは「タックルして寝かされたらボクシング選手は何もできない」という説。
でも「強い」って何をもって指すのだろう。
ボクシングルールなら間違いなくボクシングの世界チャンピオンだろう。
つまり、「条件」が大切になる。
「何でもあり」という意味で、例えば「お金」や「人気」、「売上」というような尺度だったらどうだろうか。
つまり「強い」と言っても、それは相対的なものに過ぎない。
屈強な人でも、医師の前では1人の患者になってしまう。
話が外れてしまったけれど、こみち自身が考えることは、儲けるための努力と、人に役に立てる努力の両方だ。
中高年になったこみちに何ができるだろう。
悩みは深い。