帰宅すると待っている現実
出先から帰宅する時、やっぱり良いことも悪いこともあるけれど、外で働けるのは感謝したいことだ。
「今日も働かせてもらえた」
そんな気持ちで、充実感も感じながら家路を急ぐ。
介護士の仕事を辞めて、こみちは同居する両親を含めて、毎朝欠かさず朝5時には起きて朝食を作る。
いつからか始まった「ポットへお湯を準備する」のも、気づけばしなければいけない家事になった。
「ケトルを使えば?」
そんな提案をしても、両親は電気代が気になるらしい。
「やかんを使えば、電気代掛からないでしょ!」
「じゃ、ガス代は?」と質問しても、そこは思考が進まない。
どんなに言っても「習慣」を変えてくれることはない。
特に意味があることではなくても、「コレはコレ」がずっと維持される。
「ただいま!」
帰宅して玄関ドアを開けてそう叫ぶ。
玄関脇のリビングから、テレビの前でうたた寝している父親が「おかえり」と答える。
靴を脱ぎ、洗面所で手を洗う。
その内に母親が二階から降りて来て、「暑かったでしょ?」と天気の話題に触れる。
高齢者が好きな話題は「天気」。
特に両親は毎晩、毎朝、テレビで天気を確認するのが習慣だ。
どこにも出かけない父親が、真剣な顔で天気予報を食い入るように観ている。
「明日の天気は…」
そんなワードでも呟けば、父親は誇らしそうにテレビで聞いた予報を話始める。
「午後からは折り畳み傘が必要だぞ」
正直なところ、うんざりする。
と言うのも、父親は夜更かしして朝が遅い。
いつだか母親が「早く起きろ!」と言った時、父親は激昂して「オレは夜中に何度もトイレで起きているだぞ!」とキレた。
その状況を見て、もう言い返す言葉がないのは分かってもらえるだろう。
確かに高齢になると頻繁にトイレに行きたくなる。
しかし、ポイントは父親自身が「夜中のトイレ」を1つの大きな仕事と捉えていること。
つまり、家族がご飯を作っても、風呂を洗っても、洗濯をしても、父親自身は「トイレに行っている」で帳消しなのだ。
むしろ、毎晩大変な自分の方が荷が重いとさえ思っている勢いだ。
「お昼ご飯は?」
母親が家にいると、朝からその話題が多い。
「適当に食べるから大丈夫だ」といつも答えるのだが、母親の思いはそうではない。
毎朝、簡単でも大人4人分の食事を準備しているこみちが、自分で食べる料理ができないはずはないだろう。
でも母親は心配になっていて、いつも同じことを聞いてくる。
今日も帰宅して、ダイニングテーブルに母親たちが食べたであろう昼食で使った皿が置かれている。
「お昼ご飯は?」
「適当に食べるよ」
その答えに母親は不満そうだ。
でも「何かある?」とでも聞いたものなら、母親はありったけの情報を思い出し、何より母親が手料理を作り出そうとする。
問題はその手料理だ。
即席麺でラーメンを作れば、健康を考えてありとあらゆる野菜を入れる。
同じ鍋を使うから、野菜がしんなりした頃は麺ものびのびで美味しくない。
でもそれが母親の手料理なのだ。
昔から一切味見をしない。
だから、美味しい時と不味い時の差がものすごい。
父親は何でも食べる。
つまり、味音痴。
でもこみちは実家を出て、いろんな食事をして、母親の手料理が不味いことを知ってしまった。
つまり、母親がキッチンにいると、こみちは昼食が食べられない。
「お昼ご飯は?」
母親は自分のことを知ろうとしないから、優しさからいつもそう声を掛けてくれる。
こみちの本音は15分で良いからキッチンを貸して欲しい。
そうすれば昼食を作って食べられる。
でも、母親が家にいる時は決まってダイニングテーブルの席にいて、キッチンを使うと手伝おうとする。
「皿出すね!」
いいと言っても、あれこれと自分のイメージで用意される。
これで完全に母親が仕事を辞めて家にいるようになったら、三度の食事にもため息が出てしまう。
「腹減った」
でも、我慢するしかない。
分かってもらえますか。
親との同居って、理解できない者同士の共同生活なんです。
放っておいてくれたら良いのですが、「自分は料理ができる」そんな変な自信があると、相手側は本当に気を使います。
「こみちは少食だね」
母親はそんな風にもいいます。
「元々大食いではないけれど、食べるチャンスが無いだよ」と言っても、母親には伝わらないから食べるのを我慢する時もあるんです。