「お使い」を頼むと
母親がチラシ広告で見つけた激安の麦茶のペットボトルを、父親に頼んだと言います。
2リットルのペットボトルで1本99円とセール品です。
それが6本入った段ボールケースを一箱、つまり6本買って来てと頼んだつまりですが、なぜか父親はウーロン茶の500ccのペットボトルを24本、2ケース買って来たのでした。
当然、それを知った母親は激怒していて、父親と口げんかしたそうです。
腰悪い母親は、重い段ボールケースを持つことが出来ず、こみちか妻が帰って来るのを待っていたと言います。
「返品したいの!」
実はその時、こみちはまだ「麦茶」と「ウーロン茶」を間違えていたと思っていました。
「別にウーロン茶でもいいよ」
しかも2ケースもあるとは思っていません。
「でもでもでも」
納得していない母親ですが、自分では交換にいけないこともあり、渋々ながらそれ以上は言って来ませんでした。
それから数日して、冷蔵庫に500ccのペットボトルがたくさん冷やされています。
「もしかして? 500ccを買ってきたの?」
最初、父親に事情を訊ねると、「それで良いんだ」と答えます。
「でも、2リットルを頼まれたんでしょう!?」
母親から聞いていた話と違っています。
「いや、それでいい」
まだ辛うじて不機嫌ではありませんが、自分は「正しい」と父親は言い張ります。
それを聞いた時、「種類を間違えた」ことに焦りも感じない父親を見て、もうお使いさえ頼めないのかと思いました。
しかし、「待てよ」と思ったのは、母親の言動にも不思議なことがあったからです。
というのは、父親が間違えて買って来たという話をして来た時、母親は「麦茶」ではないペットボトルを持って、「やさしい麦茶を買って来て」と頼んだみたいでした。
その時、母親も「これは「やさしい麦茶」ではないけれど、同じ2リットルのペットボトルを」と頼んでいたら、結果は違っていたかも知れません。
また、父親にすれば、「それは麦茶ではないけれど、「やさしい麦茶」が良いのか?」と質問できていたら、良かったかも知れません。
しかし、段々と自分のことで手がいっぱいになると、どうしても相手の立場まで想像することができません。
それだけに、母親からの話も父親からの話も、聞きたい肝心な部分がいつも不明瞭でなぜそうなったのかも聞き取ることが難しいのです。
「買い物を頼む時はメモに書いてあげたら?」
そんな提案をすると、「自分は間違え頼んでいない」という説明を母親また繰り返します。
「そうではなくて、頼むならメモを手渡しすれば互いに分かるでしょう!」とこみちが繰り返しても、「自分は間違えいない」に話題が戻ってしまいます。
改善策に話が進むことはなく、あるのは間違えて買ってしまった種類もサイズも違うペットボトルです。
そして、結果的に母親は父親に買い物を頼まなくなるでしょう。
また父親にしても、「メモを書いてくれ」とは言いません。
本当に「ちょっとした工夫」なのですが、それができないために、日常生活の大きな1つができなくなってしまうのです。