「幸せ」とは何か?
その有名人の訃報を聞いたのは、昨日のことでした。
少なくとも、こみちよりずっと「成功者」で、社会的にも評価されていた人です。
仕事も充実し、これからも生活に困っているという風には見えません。
他人の幸せなど誰にも分からないので、それこそ周りから見れば「幸せそう」に見えるということもあるのでしょう。
こみちのことに話を戻せば、例えば今年の試験で「介護福祉士」に合格できました。
残念ながら不合格になってしまった人からは、「合格できて良いなぁ」と思われるかも知れません。
しかし、合格できても今は介護系の仕事をしていませんし、就活で介護職に進むのは少なからず抵抗があります。
「介護」を仕事として、また同居で親の介護予防をしてみて、簡単なことではないとつくづく感じます。
「これだけすれば良い」と割り切れるならまた違いますが、「70%できたら80%はできないのか?」となりますし、100%になっても120%を求めてしまうのが介護系の仕事です。
もちろん、そんな風に自分でハードルを上げていけば、いつか限界を迎えて、こみちのように心を壊してしまうでしょう。
だからこそ、こみちが介護職に戻るなら、割り切りが必要ですし、見ないふり、気づかないふりをしなければ身が持ちません。
例えば、家で毎日の朝食をこみちが作ります。
でもそれを「ありがとう」と両親は言いいません。
「子どもが親の世話をして当たり前」ということもあります。
しかし、両親が共に自身の両親を世話したり介護したということも無いのです。
もちろん、一回や二回なら、何かしたのかも知れませんが、「子どもが親を…」という割には、自身がそんな生き方をしてはいなかったりします。
幸せで、楽しいことなら、誰でも否定はしないでしょう。
しかしそれは、多くの努力や結果から巡るもので、「頑張っている時」は他の誰かが「幸せ」を感じている時でもあります。
つまり、毎日が幸せということなど起こり得ません。
努力も頑張ることもしない父親、改善や他人の忠告を無視する母親、2人が幸せを感じられるのは、それこそこみちや妻の「幸せ」を分け与えた時でしょう。
「暑いからアイスクリームを買って来たよ。食べる?」
喜んでくれるかなぁと思ってしたことを「幸せ」と感じてくれたら嬉しいですが、「これは甘い過ぎる」と言われてしまうと、「ああ、そう」となります。
でもそこで諦めてしまうと、もう両親に幸せが巡るチャンスは減ってしまいます。
段々と気力が失われて、両親に優しくできなくなってしまう自分を責めてしまうこみち。
でも、「どう?」と頑張ってみることはあります。
ただ「知らなかった」「聞いていない」と、これまでに何度もお願いした些細なことも無視して、両親は自分たちの好きなようにしか生きてくれません。
時には大切にしている物が壊れていて、「壊れているんだけど?」と言っても知らん顔です。
もちろんその現場を見ていないので誰がしたのかは分かりません。
しかし、それをいつまでも言い続けても先には進めません。
流して流して、でも見捨てないで続ける。
それが「介護」なのでしょう。