人間生活において「歩く」とは何か?
ダラダラと話す前に、結論を紹介しておこう。
「歩く」ことができなくなると、ほぼ自宅での生活は困難だ。
つまり、家族の負担を厭わないならできることではあるが、在宅介護が5年、10年と続けば家族もそれだけ年を重ねる。
中高年になって特に思うことが「残された時間」で、時間の使い方に関心が出てくる。
20代と30代、それ以降10年の違いは、生きる上でのテーマまで違うだろう。
その時にしかできない(意味をなさない)ことがあって、後から同じことをしても当時とは何かが違っている。
そんな風に考えると、在宅介護も本人のできる範囲で継続するなら負担も少ないが、料理や掃除、入浴やとトイレに至る全部が人任せになる段階(要介護4、5)は流石に在宅介護は難しい。
一般的な目安として、「一人で立ち上がれない」くらいを要介護3と呼ぶ。
立てないということは、歩けないし、椅子からベッド、トイレの便座、入浴、さまざまな生活シーンで介助が必要になる。
実際、介護士の離職理由の中に「腰痛」があるが、誰かの介助をするということは、方法や知識、技術が適切でないければ介助する家族の身体も壊してしまう。
腰痛もレベルによっては身体を自由に動かせないのだから、在宅介護していた家族の方が介助される側になることも起こり得る。
介護業界では、ボディメカニクスという形で介助の基本を唱えているが、こみちが勤務していた施設でも、男性スタッフが腰痛ベルトを巻いていることも珍しくない。
ある意味で、介護士の仕事がそれだけ激務とも言えるし、知識は不足したまま現場で働く人も多いということでもある。
介護業界では介護福祉士になる前段階として実務者研修を設けていて、知識や技術を学べる機会がある。
業界で働くだけなら初任者研修でも十分なのだが、「介護とは何か?」をライフプランの意味で考えるなら介護保険制度についてもう少し学ぶことが大切で、ケアプランの立案や介護士の働き方など、継続可能な介護環境を率先して考える人材の育成が不可欠になっている。
とは言え、現場としては介護士にそんな時間的な余裕はないし、どうしても「現場ありき」で考えてしまう。
誰かの負担や頑張りで維持されている環境に目を向けられなければ、在宅介護でも施設介護でも、介護する人の負担が減ることはない。
その意味では、自分で自分のことが1日でも長くできることが大切で、健康的な生活環境に目を向けるべきだろう。
我々、中高年の世代では、男性が料理をしないということ習慣も残っていた。
しかし誰かにしてもらうという環境は、それだけ介護される人になりやすい。
つまり上手くなくても、生活に関わる一通りのことをできるようになるべきだ。
ある意味、その上で稼げる方法を身につけることになる。
それだけ「歩く」という行為は、我々の生活の基本で、それが低下すると一人では生きて行くことも苦労する。