「成功者」には特有の雰囲気がある!?
少し思い出して欲しい。
ウインドウショッピングではなく、本気で買うと決めていた時、来店してお目当ての商品がある棚までどんな足取りをするだろうか。
きっと、店に入って、真っ直ぐに向かわなくても、買うと決めた商品を躊躇って手に取ることはないだろう。
「高いなぁ」「自分には必要ないかも…」
そんな否定的な考えは、すでに払拭されているから、「ヨシ、買う!」という単純明快な態度になるはずだ。
それが本当なら、「成功者なる雰囲気」や「失敗する人の予兆」など、まだ事が始まっていない時からでも、おおよそ成功するかしないか判断できてしまう。
さらに言えば、失敗した時に何を思ったのかを聞けば、次に成功できるか、また失敗するかも見当がつくはずだ。
なぜ「失敗する」のか?
成功までのプロセスを階段状の道として想像して欲しい。
とは言え、一般的な階段のように、長さはまちまちでも、一段ずつは登ろうと思えば登れてしまうケーキもあれば、一段が身長よりも高くて、助走をつけてジャンプし、その上辺に手が届かないこともあるだろう。
そもそも、登る事が不可能な階段は「成功」の見込みは「0」だと覚悟しよう。
残念だが、その挑戦はどんなに繰り返しても失敗しか有り得ない。
では、努力や工夫、計画を立てれば、成功できる場合はどうするのか。
その場合に問題視されるのは「時間」である。
例えば介護福祉士の試験は、学習内容としては難しい内容は含まれない。
しかし、試験日までに出題範囲を網羅できるかが合否を分ける。
一日10分。一年間継続できた人は簡単に合格できる。
しかし、ラスト2週間で詰め込んだ人は、「山勘」が外れたら不合格になるだろう。
合格した人と不合格だった人の人間的な能力に差は見られない。
違うのは、成功までのプロセスを「イメージ」できたかだけだ。
例えばこれが、介護福祉士の試験ではなく、司法試験になると、一段ごとの高さもあるし、その長さも相当なものだ。
凡人が登ろうにも一段さえ登れないかもしれないし、登ったとしてもその長さを考えたら、10年とか20年を費やすことになる。
20歳の青年が、ただ司法試験の勉強だけをして中高年と呼ばれる年齢まで頑張った。
それでも合格できればまだいいが、不合格で諦めるとなれば、どう考えても費やした時間は帰って来ない。
ただ人生なんてどう転ぶか分からないから、「司法試験だけを20年勉強した人」というセールスポイントにならないとも限らない。
その意味では、何もしないで過ごした20年よりも、十分に価値があるだろう。
とは言え、なぜ失敗するのだろうか。
多分、自分が登れる段差を想像以上に高く見積もっていないだろうか。
また、階段の中で現れる「トリッキー」な部分に対応できなかったのではないだろうか。
つまりいつもは10センチ段差なのに、数カ所50センチの段差とか、ジャンプするべきポイントがあるのに、いつも通り何も気にせずに歩いてしまって、気づいたらスタート地点に戻されていたということ。
失敗した人の共通点
これは少し説明が難しいが、「表情」に現れている。
「目が輝いている」状態とは異なり、表情に曇りがある。
また、話していている時に、実際の距離よりも遠く感じるのも特徴だ。
そして、致命的なのは、失敗した理由を説明する時に「自分のできたところ」を誇張することである。
なぜなら、成功は段差の設けられた階段を登り切ることだ。
にも関わらず、一段部分の高さよりも自分は足が上がると言い出しては二度目失敗するだろう。
課題は、一段分を越えたかどうかの連続だ。
一回越えても意味はないし、足の上げ方に関心を持ちすぎても前に進めない。
越えられると分かったら、そこはそれ以上掘っても何も出てこない。
むしろ次の階段に向かうべきだ。
そして、敗北した経験は、時に人格まで変える。
「キミは成功した。失敗した私の分の分まで…」
聞きようによっては胸が熱くなる場面だが、本当にそうだろうか。
失敗した人は、階段を登り切らなかっただけだ。
登れなかったわけではない。
つまり、そもそも絶望的なケースではなく、失敗した人特有の間違いをしたに過ぎない。
にも関わらず、夢破れた人として、必要以上に惨めな存在にしている。
到底、自分にはできないことをしてくれる相手ならまだしも、計画や認識の誤ちを改善すればいいだけだ。
自分でできないなら、できる人を探せばいい。
その人が心もとないなら、別の信頼できる人を探せばいい。
失敗した時に限って、「あと少しだった」という話になってしまう。
ある意味、成功と失敗の「差」は、その「少し」なのだ。