若い人にこそ知って欲しい!
夢や希望がある若い人にとって、「老いる」ということはイメージし難いだろう。
最近は、若い人でも夢や希望を持たないと聞くが、中高年のこみちが20代の頃は誰もが夢を持っていたように思う。
というのも、「夢」は大きなものとは限らないから。
憧れの職業に就くとか、〇〇に住むとか。
一方で、結婚して普通に家族を持ちたいという夢もある。
今にして思えば、「普通の夢」ほど難しく感じたりして、「夢」は大きさでは判断できない。
とは言え、自身の人生に何らかの目標や目的があることは大切で、生き方を決める指針にもなる。
「自由で気ままな人生」は、忙しい現代人の憧れかもしれないが、少なくとも世間で中高年と呼ばれる年齢を迎える頃から段々と自分一人で自分の将来を背負うことができないと気づく。
つまり、どんな生き方をしても、最後は人の世話になって最期を迎えると思った方がいい。
介護士の経験から言わせてもらえば、「介護施設でも人柄次第」ということだ。
こみちは、頑固で自我を通す利用者が嫌いではない。
なぜなら、そうやって生きてきたはずだから。
でも段々と老いて、自分では生活できなくて施設に来たとしても、本人はまだまだできると思っているのだろう。
介護する側の仕事は非効率になるけれど、だからと言って強制してしまうと、「生きるって何だ?」ということに行き着く。
確かに邪魔ならない生き方も大切だけど、多かれ少なかれ人は周囲に迷惑をかけて生きている。
その詳細に気づいたとしても、人はそこにしっかりと感謝するしかできないから、「謙虚さ」が大切なのだろう。
なぜって、迷惑かけることを当然とか当たり前だと肯定することは、自身の人生が思わぬ事態で侵害されるのと同じだから。
病気をする。怪我をする。
人に裏切られる。騙される。
人生の中で、できることなら無い方がいいことだが、誰もが「謙虚さ」を忘れて振る舞えば、それだけ多く不条理な出来事を招く。
中高年になったこみちの「生きる意味」
「生きる意味」と言っても、その答えは見つからない。
「生きる意味」ではなく、「生きている意味」が問題だ。
中高年と呼ばれる年代になると、人生も折り返し地点を過ぎて、ゴールが見えてくる頃だ。
ここまで来る間にリタイアした人も一定数いるだろう。
もちろん、自分自身だってゴールまで走り切れるとは限らない。
でもそう信じて生きている。
だからこそ、「生きている意味」を考えないと、「生まれた意味」も分からないだろう。
タイミングが違えば、「私」ではない「別の私」だった訳で、「私」として生まれた意味」を考えなければ、「生きている意味」の答えも見つからないだろう。
正直、こみちは自分自身のためにしたいことは「終えている」と思う。
つまり、もう何か夢を叶えたくて生きているのではなく、「なぜ生きているのか?」という感覚で、ここにいる。
介護士として介護施設で働き、今も両親の在宅介護をして思うけれど、こみちがいて少しでも「安心」や「幸福」を感じてくれたら、それで生きている意味を見つけられる。
朝、今日も朝食を作った。
今、母親が起きて来て、キッチンで何かし始める。
たくあんを切っているのかもしれないし、こみちの作った味噌汁に手を加えているのかもしれない。
でも、一から作るのは大変だけど、「もうひと手間」なら母親も気楽にできる。
作った方にすればいい気がしないかもしれない。
でも、「みんなにために作った」なら、それでいいはずだ。
自分が誉められるために朝食を作ったのではない。
朝起きて、当たり前のように朝食が用意されていて、朝からお腹いっぱい食べられたなら、少し幸せな気分にもなれる。
昨日、不意に落ち込んだけれど、その原因は「望まれているだろうか?」と心配になったからだと思っている。
迷惑をかけている不甲斐ない自分をやはり責めてしまう。
結構ね、YouTube のチャンネル登録者数、気になっています。
最近、上げた直後に解除されて、「嫌な気分にさせてしまったのだろうか?」と思ってから、イラストを描く時に何かが引っ掛かるように感じてしまう。
その迷いが、躊躇さを生み、心を不安にさせる。
気楽に行こう。リラックスしよう。
そう思うことが、きっと良い結果に繋がると信じて生きてみます。