「介護」の原点を考えるために
介護福祉士になったこみちが思う「介護」の姿は、「特別」なことではありません。
だからこそ、「「当たり前」や「常識」が同じなのか?」が問われるのです。
現場スタッフの担うべきスケジュールは、ほとんどぼんやりしている時間はありません。
むしろ、追われながらこなさなければいけないストレスを抱えて働いています。
その中で、わざわざ利用者の要望に応える「一歩」は、スタッフの自己責任的な扱いになります。
責任負いたくない。ダメだと評価されたくない。
そんな介護士は、「一歩」を踏み出すことはありません。
言い換えれば、施設側で設定したスケジュールに従い、任務を果たすことが「介護」なっているのです。
介護の仕事を始めると、寄り添いや自立支援など、本来なら基本的な介護知識が前提となることを飛び越えて、「理想」を先に教えられます。
事実、経験の浅いスタッフの中には、利用者と雑談することを「介護」と勘違いして、スケジュールに書かれた業務を放棄している人も見かけます。
ある意味、それをするために「ノルマ」を素早くこなせる技術力を介護士として身につけなければいけないのです。
「ノルマ」とは、安全性や不快感など、人と人が関わる仕事なので、「介護とは何か?」を何度も考えてみることがベースになります。
例えば、移乗や体位変換をとっても、利用者側の気持ちになってみると、ただテクニック的なことだけでは「上手い」とは言えません。
「何となく苦手だなぁ」と感じている介護士が担当になったら、利用者としては少し気分もよくはないでしょう。
例えばその時、介護士側も「してあげている」という気持ちがあれば、一瞬、利用者の不快な表情に寄り添うことはせず、「いい身分だ」と利用者のことを否定的に捉えたりしないでしょうか。
理想を言えば、介護士になる人は、「介護をしたいと思っている人」がするべきです。
しかし、中高年から仕事を探してみると、採用される仕事はどうしても限られてしまい、介護の他、いくつかの業務になることが定番です。
そんな経験を経たとしても、働き始めた介護士の中には「働かせてもらっている」という意識よりも先に「してあげている」という感情になります。
なぜか?
理由は簡単で、人は「同類」とか「自分が少し上」ということに敏感な生き物だからです。
料理人が、客に出せる料理を作れたら、それこそ自分の意識に反して謙らなくても、仕事として収入を得られるでしょう。
それが「一人前」になるということで、人生のより豊かにしたいなら20代の中盤くらいには到達したい心境です。
思うに、日本には「目上の人を立てる」という習慣があります。
一方で中高年になると年下の上司も珍しいことではありません。
扱いとしては年齢から優遇されることも増えますが、反面、年齢を問わず「一人前」が当たり前になるのも事実です。
介護士の給料が上がらない要因は、介護が「日常」を扱うからでしょう。
特別な技術には報酬も出す根拠が見つかりますが、誰にでもできることなのにそこに対価を払うのはどうしてもスッキリとはしません。
しかし冒頭にも触れましたが、介護士の常識や当たり前と利用者のそれは同じではありません。
つまり、その擦り合わせは「特別なこと」なのです。
事実、人によって心地よいテンポは異なります。
気になることと気にならないことも違います。
それこそ最大公約数で作業をすると、スケジュールをこなすことはできません。
どこまでを重視し、どこを省くのかとその時々で判断するには、全てを知っていなければできないことなのです。
それができる人を介護の「一人前」と呼ぶとするなら、誰もがしていることだとしても「当たり前」と考えるべきではありません。
しかし、介護士に限らず、「なぜ生まれたのか?」や「なぜ寿命があるのか?」と正面から考える人は少数派でしょう。
考えたことはあっても、自身の考えを構築することに過ぎず、生きる中で他人を理解し、「人」そのものを観察して、答えを導き出した人となると、さらに限られます。
しかし、介護をするには、その擦り合わせが大切で、介護福祉士になったからこそ言えますが、異業種で一人前になる方が考えるべき項目が限定されているのでおすすめです。
にも関わらず介護の仕事が、年齢や経験を問わないのでしょうか。
実は、採用こそされても辞めてしまう人も多く、言い換えれば、事前にどんなに意欲を確かめても現場で本当に動けるかはやってみないと分からないからです。