中高年の願望 「男の簡単料理」は楽しい!?

 介護士を辞めて

2つの仕事をしていたこみちが、介護施設から辞職して時間的に暇ができた。

朝、5時前に起きて四人分の朝食を作るようになってしばらく経つ。

今日は、キャベツの千切りをベースにトマトときゅうりをニンニクソースで和えた。

あとはスクランブルエッグ、チキンナゲットと簡単で浅っぽいメニューだ。

大体は、ご飯か食パン、味噌汁というのが定番になっている。

ただ、こみち自身の料理センスは皆無で、「食べられる」ことが基準になっている。

だから、スクランブルエッグも塩胡椒に「牛乳」を加えて作っただけだ。

ほとんど火加減だけをポイントにしていて、できる限り満遍なく加熱されるように朝からフライパンをガタガタと揺すって半分くらい火が通ったら盛り付けに移るようにしている。

手料理の良さ

独身時代というか、両親が留守がちだったから、中学生くらいの時から自分の空腹を満たすために台所に立った。

当時は野菜炒めが定番で、派生して焼きそば、焼きうどん、チャーハンができるようになった。

そんな風にして作れるものが増えていき、一般的な家庭で食べているだろうコロッケや豚カツ、グラタンとか、作れるまでになった。

もちろん、「美味い」ではなく「食べられる」レベルではあるが。

料理も絵を描くことに似ていて、「基本」から派生するように進歩していくイメージがある。

話がそれてしまうが、ある絵を描くことを趣味にされている人が、「花」の絵を描いていて、花びらの質感を自身で評価していた。

「もう少し柔らかく描けたら…」

一般的に絵を描くなら、単品の「花」や「果物」がおすすめされるのは、形の狂いが目立たないからだ。

少しくらい歪んでいても、完成すれば「それっぽく」見える。

それ故に、この方は「花びら」の質感に着目したのだろう。

しかし、そのコメントを目にして、「質感かぁ」とこみち自身は思ってしまった。

というのも、そもそも「硬い」や「軟らかい」ってどこで感じているのだろうと改めて考えたからだ。

鉛筆画をしていた頃は、鉛筆の芯の硬さや練り消しでの擦りなどで、「ぼかし」を使うこともあった。

でも、こみちは画家ではないし、趣味で「メモ」として映像を書き残しているに過ぎない。

だから、テクニックで質感を演出するよりも、見たままを描くことにこだわって来た。

イメージとして軟らかい物は、エッジが立たないだろうから、明度の変化が滑らかになっているはずだ。

しかも花びらは薄く、透けやすいなら、光の透過具合も描いた方が「薄さ」を伝えやすい。

観察すると、形だけでなく、表面の細かな形状や色の変化まで分かってくるから、それを忠実に再現すればするほど、「元」に近づいていく。

その意味では、絵を描くことと料理は似ていて、先ずはどれだけ高い解像度で「分析」できるかだろう。

そもそもこみちの料理は「食べられる」基準なので、食べられる料理はすべて同じ評価になっている。

そんなこみちである以上、めちゃくちゃ美味しい料理を作れるはずはない。

同じことが絵を描く時にも言えて、どこまで対象物を観察し、それを紙面に描き写せるかが問われる。

最初は形を追うことで精一杯だろうし、大まかな色づけで満足できる。

しかしよくよく観察すると、「直線」も複数の「曲線」だと気づくし、単色に思えた部分にもいろんな色が含まれていることが分かる。

テクニックとして「反対色」を塗る方法があるが、「白」を表現するのに「黒」が大切であるように、「赤」であれば「緑」のように、正反対の色を加えることで表現したい「色彩」をより強調することができる。

もっとも知識としてではなく、観察すると「反対色」が含まれていることに気づくから、思えば「質感」として描くよりも、「観察」して感じるままに色を載せていたように思う。

こみちにとっては、絵を描くことと料理を作ることは似ているが、そのバックボーンとなる基本テクニックはかなり差があって、料理で言えば正確な包丁さばきは無いし、調味料に関する知識も塩胡椒レベルのままだ。

こんな調味料を使えば、こんな味にできると知れば、それだけ料理としての再現性が高くなるだろう。

始めれば面白いのだろうと思うけれど、今のところは「朝食」として準備し、弁当を作ることをこなしているに過ぎない。

男性諸君、料理をしていますか。