「介護」は何がどう「大変」なのか?

 「汚い」から大変なのではない!?

介護士を未経験から始めたこみちですが、当時のイメージは「介護=オムツ交換」でした。

他人の排泄物を処理するということが、自分にはできないことと認識していましたし、初めて現場で見た時は後退りしてしまうほどでした。

そんなこみちでも、場数を踏めばできるようになりました。

それこそ勤務の度に毎回10名くらいをこなしていけば、利用者と会話をしながら作業できるようになります。

じゃ、何が「介護」で大変なのでしょう。

ズバリ、「理想」と「現実」のズレです。

高齢者になっても、それまでの生活があるので、「理想」があります。

例えば、風呂から出て衣類を着る時、「理想は3分以内」という経験値が残っています。

しかし、立つことができない利用者の場合、介護士一人で着衣するには、横たわってもらうしかありません。

二人で介助するには、タイミングも合わせなければいけません。

「遅い!」「寒い!」

利用者は理想があるので、不満を漏らします。

急いでいてもなかなか上手くできないのは介護士も同じで、利用者に急かされて余計にストレスを感じます。

「じゃ、自分で着てください!」

と言えればいいのですが、そうもいきません。

つまり、遠くには譲れない「理想」があって、でも現実はそれに向かって進んではいない。

高齢になるとあまり先まで考えられなくなって、介護士の立場からすると早くしたいなら「そこは我慢して欲しい」と思うタイミングがあります。

でも、「トイレ」とか「手を洗いたい」とか、介護士にすると「今?」という時に言い出します。

お風呂場に来て、今から入浴という場面で、「オシッコしたい」と言い出されると、トイレに行ってからのサポートは理解できていても、風呂の担当者がその場を離れられない状況が出てきます。

でも、他に頼めなければ、トイレに連れて行く他はありません。

「なんで今なの?」

とストレスを溜めてしまいますが、それが介護の大変さでしょう。

1、2、3。

あとは4と5。

そう思ったら、「1をお願い」と言われる。

「もう終わりましたよ!」

「終わっていない!!」

そんなやり取りが何度も起こります。

利用者にすれば、例えば認知やこだわりから、自身で状況を正確に把握できないことがあります。

つまり、言葉で説明しても理解できないのです。

入浴が終わり、身体を拭いて更衣場所に戻ろうとした時に「風呂は?」と言い出すとその後が大変です。

戻ることを拒絶し、風呂場で騒ぎ立てるという利用者もいるからです。

その声に反応すると、他の利用者も感情が不安定になるので、介護士は数倍神経を使います。

言葉では通うじない相手に、でもスケジュールはどんどん迫っている。

高圧的な態度にならないように、その場を収めるのも介護士の力量です。

感覚的には、同じことを2度3度する覚悟が、意外とできません。

やっと終わったとか、終わりが見えてもう少しだと思った時に、それを全部ひっくり返されることもあるのが「介護」です。

でもそうなってしまうのは、利用者が悪いのではありません。

「加齢」による症状として、「理想」と「現実」の差が上手く掴めなくなるのです。

例えば、「電話しておいて」と高齢者に頼んでも、数日後にまだできていないということが頻繁に起こります。

「何でしていないの?」と問ういても、「電話するしかないの?」と電話を掛けることそのものを問題視していたりします。

つまり、理由はともかく「電話する」ということができないのです。

受話器を持つことができないのではなく、「電話しなければいけない理由」を理解できません。

でもこのような状況はとても日常的で、「ゴミを捨てたの?」と言っても「何曜日だっけ?」と一歩も二歩も前に話に戻っています。

「朝も言ったでしょう?」と怒っても、状況を理解できていないので「怒られた」とか「嫌味を言われた」という記憶になり、それでは相手を毛嫌いするばかりです。

感情をグッと堪えて、「ゴミ捨てしようよ!?」と笑顔で話し掛けることができないと、介護は上手くいきません。

その意味では、介護は忍耐力なのかもしれません。