当たり前!? 「生きる理由」を考える
幸いにして、こみちはいわゆる「いじめ」というしがらみをほとんど経験していない。
「ほとんど」と言うのは、「全くなかった」訳ではないからだ。
小学校の低学年の時に、ある友だちから嫌がらせをされた。
その頃のこみちは、とても内気で、思ったことを言えないタイプだった。
そしてある時、別の友だちからケンカを吹っかけられて、思わず顔面に「フック」を放ってしまった。
実はこみちには兄貴がいて、日ごろからボクシンググローブを付けて、遊びという中で「スパーリング」をよくしていた。
いつも、サンドバッグ状態で「ボクシング」など大嫌いだったけれど、日本拳法を学んでいた兄貴からパンチやキックの仕方をそれこそ丁寧に教えられた。
でもそんな経験を人前で出す勇気はなく、それこそ学校では何も言い返せない子どもだった。
そんなこみちが「フック」一発で友だちを泣かせてしまい、「あのこみちが!?」ということでちょっとした騒動になった。
何より、殴ってしまった友だちが大親友となり、その友だちがこみちを庇ってくれるようにもなった。
最初に意地悪をし掛けていた友だちに、「もうコイツに手を出すな!」と言ってくれたのも彼だ。
そして、その大親友が引っ越ししてしまう3年生まで、学校でも放課後でもよく一緒に遊んだ。
日本拳法の試合にも出て活躍していた兄貴とは違い、こみちは試合が怖くて格闘技が嫌いだった。
グローブやサンドバッグが身近にあったけれど、殴ると倒れてしまった思い出が一種の「恐怖心」にもなっている。
本当は、父親もこみちに空手とか日本拳法などを学ばせたかったらしい。
理由はシンプルで、「自分の気持ちをきちんと言える人」なって欲しいからだった。
力技が日常生活で否定されるべきなのは誰もが分かっている。
だからと言って、正攻法で誰もが直向きに努力しているかは別問題だ。
つまり、コツコツと努力できない人ほど、進発的な方法で解決しようとする。
そこに巻き込まれてしまうと、努力や成果も吹き飛んでしまう。
「いりません」「欲しくありません」
きちんと自分の気持ちを伝えられる人になれれば、少なくとも理不尽な対応から身を守ることができる。
こみちは、今でも争いごとを見ると嫌な気持ちになってしまう。
どちらかが正しいのか以前に、そんな騒動に耐えられない。
尾崎豊さんの「僕が僕であるために」という歌を知っているだろうか。
名曲の一つだが、もしも知らない人がいたらYouTubeで検索して欲しい。
そして、「歌詞」を読んで欲しい。
「生きる」って何なんだろう。
でも一つ言えることがあって、「こみち」がここにいることで、たまたまだとしても誰かがこのブログを訪ねてくれて、「こんな奴もいる」と安心したり、自身が癒されたなりしたなら、「こみちが生きている」意味がある。
そんな風に思いながら、今日を生きていくつもりだ。