「運気を上げる」ためのひと手間とは?

 「運気」について考えてみる

中高年になると「健康運」や「金運」など、若い頃よりも「運気」に関心が高まります。

「トイレをきれいにすると運気が上がる」というような専門家からのアドバイスも、テレビや雑誌などで耳にしませんか。

そこで、素人のこみちの「運気」について考察してのですが、「気の流れ=考え方、判断力」と解釈するなら、「気の流れ」が悪ければそれだけ良い結果も得られないのは当然です。

つまり、「自分は正しい」とか、「運が悪い」とか、現状を全面的に肯定しておきながら不満を解消できないのは不思議ではありません。

日常生活でマナーの悪いドライバーをみると「あんな運転では事故になるだろう」と思ったりしますが、言い換えれば「気の流れ」に逆らえばそれに応じた結果しか招きません。

ところが社会とは不思議なもので、「特有の思考ロジック」が存在します。

例えば会社という組織には定められた規則やルールが存在するでしょう。

上司が部下を管理監督するというのも、業務効率の観点から導き出された規範です。

しかし、上司も万能ではありません。

仕事上に限ったとしても、経験や実績が常に正しい判断を裏付けるとは言い切れません。

そして、経験に乏しいと判断された部下であっても、時に奇抜で画期的なアイデアを生み出すこともあります。

時代が変化し、やがてそのアイデアが3年後に常識になっても、その頃に始めたのでは勝算ある展開には結びつきません。

つまり、判断としては正解でも、それが早いか遅いかはとても重要なことで、経験の豊かさから導き出された結論が「おおよそ正しい」ことだとしても、それを繰り返すだけでは「気の流れ」を変えることはできません。

いわゆる「無難な方法」は、大きな失敗を減らすことはできますが、大きな成功を招くことも稀で、さらに言えばそれをすることで周囲の人も「成功」から遠ざけます。

清く正しい生き方

耳にしたことがある「清く正しい生き方」とは、どのような生き方でしょうか。

もしも、自分や自分の周りだけを考えて「清く正しい生き方」を実践してしまうと、矛盾や齟齬をさらにその周りでフォローしなければいけません。

なぜなら、「生きている」限り「清く正しい生き方」を実践するなど不可能で、人は多くの人やものに支えられて生かされているからです。

つまり、「生きている」ではなく「生かされている」のです。

だからこそ、「清く正しい生き方」は「清く正しい生かされ方」でなければいけません。

周囲が困惑していたのではそもそも「清く正しい」とは言えないのです。

神社参拝をして感じること

参道を歩いて鳥居を潜ると、「空気が変わった」という経験はありませんか。

その理由や根拠はこみちには説明できませんが、「さっきまでの日常生活」とは異なる雰囲気、気持ちになったのは事実です。

言い換えれば、この「変化」は日常生活の中で感じ取ることができなかったこと。

「運気を上げる」時に不足していたこととも言えます。