これまでとは違う「感覚」
十代の時、こみちは「建築家」になりたくて、夢多い若者でした。
実際、とある学校の門を叩き、夢を叶えるための一歩を踏み出しました。
これがもしも、「ある学校」ではなく、「もう一つの学校」だったらと思うことがあります。
みなさんは、「建築」と聞くとどんなイメージを浮かべるでしょうか。
「建築」は、「介護」と同じくらい対象となるエリアが広く、歴史、文化、教育、自然、デザイン、法律、それこそ「介護」も含まれます。
当然ですが、「建築家とは何か?」を考えた時に、「介護」と同じようにどこまで掘り下げて実現して行くのかが問われます。
ある意味、「介護士」として働くことは、建築現場で職人たちと一緒に働くことにも似ていて、学生時代に東京の現場以外にも、関西や四国など、長い時はひと月くらい飯場で寝泊まりした経験もあります。
「お前、学生なんだってな?」
「はい、そうです」
「何でこんな所に来ているの?」
「いや、専攻がこっちなので…」
「お前、馬鹿じゃないの? 現場って場所は…」
もう数十年昔の話です。
中卒ですぐに現場に来た兄ちゃんは、かなり気合いの入った連中も多かった時代。
少し歳を重ねて二十代半ばを過ぎると結婚し子どもがいるのが一般的です。
つまり、「建築とは何か?」の答えを探す人など、よほど暇人で、普通は生活するために働き、家族を養いながら週末の予定を楽しみに今日を頑張っていくものです。
正直なことを言うと、介護をしている時にいろんなセミナーを受講させてもらいました。
例えば「介護とは何か?」というような問いに「我々介護士が何もしないこと」と答えた講師の方がいて、「なるほど」と思えた部分と同時に「もっと分からない」部分もできました。
これって「建築の設計」でもそうですが、「小説」や「映画」、それこそ「美術」や「音楽」にも共通していて、「どこに基準を置くか?」で答えが変化します。
講師の方が教えてくれた「何もしない」の真意は、介護の勉強をされた方なら思い出すはずですが、「ICF」の理論そのままです。
利用者がどんな人で、何かできて、何を活用できて、環境として何かあるのか。
だからこそ、その人に合った「ケアプラン」も立てられるという流れです。
ただ、現実的には「ケアプラン」が100%実施されることはありません。
そこがつまり、「もっと分からない」部分なのです。
ある意味、介護において、10を10で受けているのではなく、9、8と段階的に少しずつですが減少しています。
というのは、一人の人を介護するには、最低でも3名のエキスパートが必要です。
それくらい居ないと、どうしても完全ではない介護になってしまいます。
介護施設では、一人の介護士が何人を担当するでしょうか。
しかも、エキスパートもいれば、未経験の人もいる中で運営しているので、時には最低限をこなすのが精一杯になってしまうことも少なくありません。
「何もしないこと」は、教科書的な答えですが、現実に目を向けるとそんな簡単なことではないのです。(講師の方を否定している訳ではありません)
だからこそ、スタッフの育成やキャリアアップとは何かを業界全体で考える必要があります。
しかし、こみちにとっては、例えば建築やデザインなどに関わった時には無かった習慣や解決策が多くて、それこそ「介護には答えがない」という結論に行き着くしかなかったのです。
少し前に、「能」のことを調べて、世阿弥の書に行きつきました。
そこで「無常」という世阿弥の言葉を聞いた時に「それはないだろう!」と思ってしまいました。
「「無常」で何故?」と思われる方に紹介すると、これは「建築とは何か?」「介護とは何か?」の答えにも共通しますが、「正解はどの時々」と言っているようなものだからです。
こみちとしては、「「♾(無限)」はいくつなのか?」と問い掛けられて、例えば一億まで数えてまだまだ先があると思いながら、その先どこまで数え続けるのか迷いながらも「数え続け」ます。
その時、「♾は数字ではない」と言ってしまうと、今まで数えてきたのは何だったのかとなりますよね。
もう一つは、どこまで数えてその結論に到ったのかも気になります。
何故って、こみちはもう一億などすっかり過ぎて、10億くらいまで数えてきました。
それが2億や3億あたりで「数字ではない」などと説いて欲しくないのです。
例えば、家を建てた時に「坪単価」という言葉を使いますが、坪単価20万円〜30万円あたりではどんな有能な建築家でも「デザイン」で遊ぶ余裕はありません。
デザインと言っても、機能を伴わない見た目のデザインではなく、「衣食住」の日常生活を踏まえた機能をひと通り押さえると、予算を使い果たしてしまうという意味です。
同様に介護施設でも、介護保険制度の報酬だけで運営している限り、やはりできることは最低限になってしまいます。
ガレージと住宅が一体となった家は、車好きの人には憧れでしょう。
なぜって、リビングにいるとガラス窓の向こう側に愛車の姿が見えるのですから。
でも、車にこだわりがなくて、自分でメンテナンスもしないし興味もなければ、わざわざ家にいる時に見えなくてもいいでしょう。
じゃ、どっちが家として優れているのかを考えも答えは簡単に出ません。
しかし、建築家になるなら、それこそ車やバイク、料理や風呂、洗面所にトイレ、玄関といろんな所にある価値やこだわりを共感できないといけません。
「収納の多い家が欲しい」とか、「日当たりのいい家にしたい」とか、イメージとしてある条件を具現化する手段やテクニックがないと、「こんなはずでは…」という家になります。
設計した方は、「〇〇というから」と反論するでしょうし、依頼主は「もう少しいい塩梅にして欲しかった」と言うはずです。
そこにある問題は、「どこまでの選択肢を説明する必要があったのか?」でしょう。
もちろん、建築家も万能ではないので、想定外のケースも起こり得ます。
しかし、プロ故に初めて建てる人よりはいろいろ気づいたはずです。
そこで、どんなことが起こり得るかをすべて相互理解するまで話し合えるなら、それこそ「時間」は必要ですが、誤認や誤解を最小限にできるでしょう。
しかし、例えば建築家がある指摘をした時に、その根拠を理解するには「建築」から学び直さないといけません。
でもそこまでできるかと言うと、それこそ人によって理解度は変わります。
当然ですが、レアケースに対する反応も異なるでしょう。
介護でいると「認知症の利用者はどこまで理解できるのか?」という話にも似ています。
すべてを理解することは難しくとも、理解できる部分やこれだけはという「核心」があって、そこを押さえるか否かは満足度に大きく影響する部分です。
こみちは「無常」ではなく、必ず「核心」が存在すると思って、それこそ10億を超えてもなお数えてきました。
もちろん、「♾」を数えられた訳ではありませんが、「無常」という解決方法ではない解決があるように思えています。
それは、今までの仕事探しでは得られなかったポイントで、何か新しい発見が出来そうにも思えます。
でも、その答えにたどり着いてしまったら、もう「人生」の意味や目的さえも理解してしまうので、もうそれ以降はエンドロールみたいになってしまうでしょう。