「うばすてやま」はどこにあるのでしょうか?

 昔、「うばすてやま」という伝説を聞いたことがあったけれど

介護の仕事に携わってみると、高齢者の暮らしが我々と大きく変わる部分がないことに気付かされます。

特に「自分らしさ」という部分に関しては明白で、何歳になっても「個人」は「個人」のままです。

一方で施設に入所すると、一定のスケジュールに沿った生活が待っています。

自宅に住んでいた頃とは異なるルールですが、施設で共同生活を続ける以上、そこは無視することができません。

言い換えるなら、高級有料老人ホームの役割は、その決まりごとに柔軟さや個人のスタイルをより尊重することで、入所してからもできるだけ変化がない暮らしを継続できることでしょう。

「うばすてやま」とは、働くことができなくなり、今まで通り家族と一緒に暮らせなくなった高齢者が捨てられるという「山」があったという伝説からきているようです。

「介護施設」が現代の「うばすてやま」なのかはこみちには分かりません。

少なくとも、介護施設で働くスタッフは、それこそいろんな事情で仕事を始めたと思いますが、それでも「加齢とは何か?」を考えて、日々の業務に従事しているはずです。

入所者とケンカをするスタッフも稀にいますが、こみちの勤務している職場でスタッフが暴力行為を行ったという話は聞いたことがありません。

そんなの当たり前だと思われる方もいるでしょう。

しかし、高齢者の中には、加齢や病気によって判断能力が著しく低下し、時にスタッフへ暴力振うケースも少なくありません。

また、男性の利用者による女性スタッフへの不適切な関わりも水面下で問題になることも避けられません。

しかし、利用者に注意をして理解できれば解決策になり得ますが、スタッフの方で我慢するしかないことも多分に起こります。

「仕事ができない」

「反応が悪い」

「ノロマ」

などなど、暴力行為ではありませんが、不適切な発言をする利用者はさらに多いのです。

どんな時でもスタッフ側が利用者に対して「反撃」しない。

積極的な暴力はもちろん、護身としてであっても「暴力行為」はスタッフとして働く以上、常に許されません。

実際、激しい口撃で泣き出したスタッフもいるほどで、スタッフと利用者の力関係は決して施設が「うばすてやま」ではないことを物語っています。

こみち家の実情

母親が軽度の脊髄圧迫骨折を患い、特注のコルセットを腰に巻くようになりました。

横になった状態から起き上がることが大変で、でも今は自分で起きてくれています。

一方で、こみちが朝5時に起きて朝食を作るようになり、母親は時間を気にせずに起きられるようになったので、少し楽になったと言ってくれます。

ただ、正直な話、勤務している施設でも脊髄の圧迫骨折から転倒し、股関節を骨折したことで歩行が困難となり入所された方がいます。

とても頭もしっかりとしていて、忙しく働くスタッフにいつも気遣ってくれるような人です。

一方で、その方を見ていると、「施設はうばすてやまではないか?」と思うこともあります。

なぜ自分が自宅には帰ることができないのか。その理由が骨折中だからではないことをその人は理解していて、いつも声掛けさせてもらった時に「笑顔」を見せてくれるのが逆に胸に突き刺さります。

「昨日はお休みだったの? どこかに出かけた?」

何かの折にその方から声を掛けられて、「〇〇まで行ってきました」と答えると、「私は行ったことがないなぁ」と声のトーンからはどちらの意味なのか察することが微妙な感じで話してくれます。

なぜ、「行けないのか」?

骨折した脊髄がまだ完治していないからでしょうか。

それとも施設が「うばすてやま」だからでしょうか。

こみちの嫁がはっきりと言ったこと

昨夜、腰の痛みで、あまり騒がない母親が無言ながらも痛がっていました。

「お母さん、痛み止めを飲んだらどうですか?」

母親の様子に嫁が声を掛けていました。

「大丈夫よ。ありがとう。先に部屋に戻るわ」

リビングから出て行った後、嫁の自室へと戻りリビングには後片付けをするこみちとテレビを観ている父親だけとなりました。

「ねぇ、お父さんはお母さんを助ける気がないの?」

洗い物をしながら、心の中で何度もそんな言葉が繰り返されます。

ただ、嫁からは今の心の回復のためにも「先を考えるな」と強く言われていて、だから家族会議になるような話はしないと約束しています。

しかし、腰の痛みを抱えて、それでも父親の世話をやく母親に何の手助けもしない父親を見て複雑に感じるのはこみちだけではないはずです。

そして、約束をどうにか守り、片付けを終えてこみちも自室に戻りました。

「あのさぁ、お父さんってもう働かないんだろうか?」

「エエ、何で?」

「お母さんの様子見ても、何にもしないからさ」

「無理でしょ。私は期待していないよ。っていうか叔母さんの件でお父さんも「施設に入ってもらうよ」とはっきり言いました。

「そうなの?」

「そりゃそうでしょう。叔母さんを捨てて、自分だけは見てもらおうなんて誰が許すの?」

その時の妻の顔を見て、こみちは反論することもできませんでした。

現代に「うばすてやま」があるのかも分かりません。

介護施設に入ることで、雨風だけでなく3度の食事もお風呂も使えます。

もしかすると、施設にさえ入れずに、日々の生活に困っている高齢者もいるはずです。

苦しいと言えないで、社会の隙間で見つけてもらえない人は、もしかすると施設に入れた人より多いかもしれません。

「父親には施設へ入ってもらう」

それだって、月々10万円くらいはないと選べない選択肢です。

仕事もしていない。年金も十分にもらえていない。貯金もない。

となれば、行政に保護されない限り、「うばすてやま」ではなくても、大変な老後を送ることになります。

老後に備えなかった人が悪いのか。そんな人を保護できない行政や地域が悪いのか。

自由とは何か。義務とは何か。

確かに父親は、自分の好きなように生きて老いて行っています。

気づくだけでも、今後、父親の家を片付け段階になって、また費用が掛かるのは目に見えています。

「今後のためにも今のうちから片付けをしておいて」

もう何年も前から言い続けていますが、朝から晩までテレビ見て、年を重ねています。

全てを放り出して、好き勝手に生きて、後始末を子どもさせるのが目に見えています。

でも、「まだ介護認定は必要がない」と言い張る父親。

両親のことを見ているだけで、こみちの心はなかなか回復のきっかけを見出せません。