昭和的「思考」のメカニズム

人生プランをどう立てるのか?

コロナ対策をニュースで見聞きしていて、いつも感じるのは「対応に追われている場面」だ。

医療現場、病院に加えて介護施設もその対応に現場スタッフは奔走していることだろう。

記憶が間違えていなければ、「コロナウイルス」が世界的にニュースとなった時、国内の空港はまだ対応を講じてはいなかった。

簡単なチェックもないまま、海外からの渡航者が国内へと入れた時期がある。

ウイルスというものが、「変異」しなかったことはあったのだろうか。

ウイルスが変異するのは、ある意味で生き延びるために「対応」しているからとも言える。

感染者増加しているのは、ウイルスにすれば「対応」が効果的だったと言えるだろう。

一方で感染を食い止めたい我々人間にすれば、「対応」が遅れ、影響が広がっていることになる。

ここで、ウイルスに関わる行政や医療機関の批判をしたいとは思っていない。

ただ、「昭和的思考」の特徴があるように思うのだ。

こみちが考える「昭和的思考」とは、フレーミング(枠作り)とその領域内の徹底が基本となる。

これは、ある意味、大学受験の秘策にも共通していて、例えば国内の一流大学は「昭和的思考」を試している典型でもある。

つまり、出題範囲という「枠」があって、その中で行われる事例をいかに効率的に学習するかで学力に開きが現れる。

小学生なのに大学生レベルの勉強をしている天才児が稀にいるが、本当の意味では言うなら「日本」を新たな国へ創造できたら本当の天才だけれど、単に大学教育という「枠」の中で学ぶ内は昭和的思考そのままなのだ。

もう一度、コロナウイルスの話を持ち出すなら、感染された人を枠内に集めることができれば、いつか撲滅できるだろう。

しかし、枠内を解決しても、枠外にまだ残っていれば、それがまた感染を引き起こして総数が一時的に減少するだけだ。

つまり、もしも昭和的思考そのままで今回の問題を解決したいので有れば、いわゆる「市中感染」した人を出してはいけない。

それは枠外(把握できていない感染者)の存在を意味し、昭和的思考では解決できないことを指す。

「昭和的思考」からの脱却

イメージとしては、枠ではなく、点と点を結んでいくことだ。

大きな違いは「領域」というものを持たない。

つまり、現代と過去、現代と未来、日本と世界、何でもいいのだが、「点」となるもの同士を繋ぐ中で、問題解決を進め、さらには形成されたアメーバのような塊が絶えず形を変化させて進んでいくようなもの。

その特徴にあるのは、「核」という概念も存在しない。

これはつまり、障がい者や健常者というような「枠」では捉えない。

何かができないというのは、認識されているかどうかの違いに過ぎず、誰だって長所と欠点があるのだから、いかに長所を活かせるかが問われている。

だからこそ、社会の中で自分の長所を発揮できるように、そのための自己分析や個人努力は不可欠になる。