例えば、今の仕事を辞めて「不幸」になったのか?
仕事を辞めて、業務で感じていたストレスから解き放たれて、圧倒的に楽を感じています。
しかし、介護施設で関わることができた利用者たちがどうしているのか気になる瞬間もあります。
介護の仕事をして感じるのは、自身の行動力を失わないように生きること。
健康もそうですが、足腰の強さとか、楽しもうとする気持ちも重要です。
どうしても、歳を重ねると理屈っぽくなります。
きっとその背景には、老いて失われた「胆力」をカバーしようと、行動するよりも価値があるのか考えてしまうからでしょう。
「頑張ったのに報われない」ということが、とても「不幸」に感じるからです。
昨日、別のブログにYouTube で成功する条件を掘り下げてみました。
簡単に言えば、週刊誌が見本です。
表紙を捲ると、数ページ綺麗な女性の画像が掲載されていて、目次には話題のゴシップや社会ネタ、暴露話が大きく目立つように扱われています。
さらに、儲け話、健康、占い、グルメなどなど、どれも気になるネタでしょう。
もちろん、週刊誌で扱うようなネタを好まない人も大勢います。
無理して手に取る必要はありませんが、そこに人間の「本質」を感じるべきです。
誰かの成功体験も、「凄い」で終わってしまうと読み手の反応は様々です。
なぜなら、誰かの成功を自分の貴重な時間を割いて祝福できる人は少ないからです。
そうではなく、そこから「どう学ぶことができるのか?」を説明することが書き手には求められます。
もしくは、成功体験の影にある不幸話を折り込むことで、調和が取れます。
「幸福」とは何だ?
思うに「幸福」は、今持っている胆力をベースに「制限されていない状況」を指すのではないでしょうか。
例えば、もう自分で身の回りのことができない高齢者にとって、願望ではなく、日常的な願いは「1ヶ月後の家族旅行」ではないでしょう。
場合によっては、3日先のことよりも、「今」なのかもしれません。
つまり、介護士が口癖のように使う「お待ちください」という言葉も、我々が感じる以上にストレスになるはずです。
なぜなら、「そこまで待てない」と思ってしまうからです。
こみちの父親の様子をこれまでにも何度か紹介しました。
三度の飯を食べて、朝は遅くまで部屋から出て来ません。
でも、そこにも理由があって、父親は料理ができません。
もっというなら、できるようになりたいと思っていません。このままでも良いと考えているのでしょう。
だから、みんなが起きて朝の身支度をする時間帯を避けて起きているのです。
ある意味では気を使っているだけマジとも言えますし、料理も目玉焼きくらいならできるだろうと思うかもしれません。
実際の一般的な子育て世代は、朝食はもちろん、子どもの身支度までして慌ただしいでしょう。
「これくらいならできる」の基準を比べても、それは人によって全く異なります。
つまり、「胆力」というベースは、一般的に加齢によって弱くなる傾向でしょう。
中高年の男性で「特に趣味がない」という人が多いのは、女性が家事をしていることが多く、衣食住に関することを長く続けて来た結果かもしれません。
一食一万円の高価な朝食を日常的に食べている人にとっては、他人が「高価」だと感じてもそれが「日常」です。
「なぜ」という部分に理解や関心がなくなると、「今の日常生活」が維持されていることを望み、変化することに難色を示します。
高齢者ほど、胆力が下がると考えると、中高年の間に「自身の老後」にどれだけ準備できるかが重要なのか分かるでしょう。
しかし、「そうか!」と興味を持てる人はまだまだ「胆力」があるからで、中高年でもすでに胆力が低いと、そんな話題に触れようとも思いません。
「不幸」とは、「幸福」の反対ですから、「自分の意志ではどうにもならない制限」がある状況です。
よくあるのは「お金」「健康」などの問題でしょう。
働く気力や生活上の好奇心がないと、「仕事を見つける」という課題がとても困難に感じます。
それを考えただけで「体調が悪くなる」のも、「困難を克服する」ことと比較してこそ起こる症状です。
こみち自身がそうで、介護の仕事をしていた後半は、「仕事に行く」となっただけで不安になり、気持ちが沈んでしまっていました。
生きるためにそれでも働くしかなかったら、当時のこみちはどうなっていたでしょうか。
身体の内と外で起こるズレを克服するために、「精神」を壊すしかなかった状況です。
特に懸念するのは、「精神」の問題は「記憶」に残るということ。
つまり、一回でも「壊す」と、そこまでは次回も割と簡単に到達します。
お金も健康も、大人になってからではなかなか習慣が身に付かないので、子どもも頃にそれをどう教えられたのかが重要です。
中高年からの生活を考える時も、その辺りのベースがどこにあるのかも注意ないければいけません。
一日中、テレビを観ていることが「幸せ」と感じる人がいて、何もできなくなることを不幸と感じる人がいます。
「テレビが観られるから幸せ」と他人から言われた時に、その事実をどう理解し、自分なりに落とし込めるかは人それぞれです。
理解が乏しくても、それに違和感がなければすんなりと受け入れてくれますし、「そうなりたくない」とまだ葛藤している人は、厳しい現実を受け入れることになります。
その時に「確かにテレビを見て過ごせている」と思えるのか、「何もできない」と悲観したままなのかは、理解の進み具合や周りの接し方も大切でしょう。