インターネット、スマホ、パソコン当たり前の世代
こみちと同じ昭和世代の人なら、学生時代にまだ終身雇用という概念が残っていただろう。
以前にも何度か紹介したように思うけれど、こみちは30歳までに独立するつもりで20代はスキルを磨くことを忘れなかった。
というのも、サラリーマンとして生きるなら「学歴」「一般常識」「資格」など、世間から求められるベースをいかに揃えるかが評価の前提になる。
その意味では、ある程度名の通った大学に通う大学生は就活を始める3年生になると急に真面目な人へと変わっていく。
それは、世間からの要望に応えるためだ。
一方で、学生に限らず世間を生き抜くためには「手に職」が基本で、料理や和裁、看護など、資格取得を含めて、一生涯磨き続けられる「技」を求めた。
中卒で職人の道へと飛び込み、十代から親方のもとで技術を学び、やがて独立して自分の「組」を作る。
一見、とてもイカつい雰囲気でも、話すととても真面目で地に足がついた同級生たちを何人も知っている。
そんな時代を生きてきたこみち世代は、今でいうインターネットなど大人になってから出会ったようなものだ。
その意味では、こみちはコンピューターグラフィックの世界に早くから興味を持ち、Photoshop だけでなくCADや3Dソフトも使えた。
3Dソフトも、本格的なものなら、5万、10万という金額で、一式を揃えるだけで給料のほとんどを注ぎ込み、そしてスキルアップしていた。
解説書も一冊5000円以上なんて珍しくなかったし、デザイン系の雑誌を何社からも定期購読し、日常生活がすべて「デザイン」に関連していた。
思えば、残業という概念はなく、いい作品と作りたくて仕事場に泊まることも多かったし、そんな働き方が好きだった。
思い出深いのは、夕方5時6時になって、職場の一階にあったコンビニに軽食を買いに行き、パソコンの前に戻って「終電まであと5時間は粘れるぞ」という記憶だ。
頭を上げると、視界に入るあちこちで同じようにパソコン作業をしている同僚たちがいて、時にこみちよりも先に独立して行ったり、仲間たちと会社を立ち上げるなんて話が常にあった。
こみちもある時、上司から密かな相談があって、一緒に会社を立ち上げないかという打診を受けた。
もうその頃は結婚していたし、一存で決めることは出来なかったから、妻に持ちかけられた話を伝えた。
結果的には一緒に辞めることはなかったけれど、サラリーマンとして働いていても、そんな誘いがどこにでもあって、そのためにも自分のスキルアップに懸命だった。
その頃、サーバーの構築にも興味を持っていて、さらに高額な専門書を買い込んで勉強するのが面白かった。
ただその頃は「資格」には興味がなく、資格試験用の知識ではなく、現場で使えるスキルばかり勉強していた。
今にして思えば、情報処理系の資格を取得しておけばよかった。
でも、それで何か始めることもないし、あの頃の資格は、医師や弁護士ならまだしも、デザインやパソコン系で資格取得を意識していた人って多かったのだろうか。
Oracleやnotesのようなサーバー構築のソフトも、認定資格はあったと思うが、勉強会とか研修に参加する方が価値あるように思えていた。
何というか、資格で実力を証明するというよりも、どんな仕事でどんな役割を担って来たのかが問われていると思っていたからだ。
こみちも年を取った。
そんな業界から離れて、気づけば誰もがパソコンを使い、インターネットを活用する時代になっている。
イラストを描きたい人は、無料のアプリが簡単に手に入るし、スマホでも十分に綺麗な写真や映像が撮れる。
特別、デザイン系の学校や会社に行かなくても、クリエイターになれる時代だ。
インターネットで調べれば、難解な解説も誰かがしてくれる。
そして、平成、令和の時代を生きる若者たちは、「スキル」を何か前に進む突破口と考えていないように思う。
むしろ、こみちが考えていたスキルなどは、彼らには常識の範疇で、しゃべりや動画編集など、新たなニーズを加えて起業して行く。
正に、あれもこれもひと通りできて当たり前という時代だ。
だから、改めてこみち世代から見ていると、若いのに優秀な人が多い。
本当にこみち世代と今の若者たちは能力が異なるのか?
こみちにすれば、例えば何度も失敗を繰り返して習得したスキルを、彼らは一回とか二回で会得する。
そうでないと、こみち世代が生活の全てを注いでいた努力や時間はどこに行ったのかと思えてしまう。
つまり、今の若者世代は圧倒的に「失敗」をしない。していないとも言える。
最初は本当に遊び感覚で好き放題使いこなし、その内に段々と型を覚えて上手くなっていく。
時にそこまでに3年とか5年を掛けることもあった。
でも今は、見本があって、そこに合わせて行くような形が主流だ。
だからいきなりでも、ある程度まとまっているし、上手いと感じる。
何よりそれで十分だという感じもある。
例えば、介護の現場では、若者スタッフが車イスに乗った利用者を押す時、先ずはブレーキを解除しているか確認するだろう。
でないと、車イスの車輪が固定されているからだ。
しかし、こみちは最初に「今から食事するので、いつものテーブルに行きませんか?」と話掛けることから始める。
これは手順という意味ではなく、「移動」という手順に含まれない作業をするかしないかという意味である。
もっと言えば、移動には無関係な「天気の良し悪し」や「お腹が空いたね」というたわいない話題を指している。
例えば「介護の仕事とは?」と問うた時に、何を思うのか。
そこで列挙した項目の数を問わず、列挙されない中にも必要なことがあって、それをどこまで拾い上げられるかは人生経験に他ならない。
だからといって中高年の介護士が有能なのではなく、一定水準に達したあとは、どこまでそこに余裕さやバリエーションがあるかが問われると思う。
何でも卒なくできる。
でも何をしても、パターンが限られてしまう。
もしかすると、今の若者の仕事にはそんな特徴はないだろうか。
それとも、こみち世代が苦労したことさえ、彼らは簡単に習得し、ありとあらゆる場面で上位互換されてしまっているのだろうか。
でも言えるのは、「手早い仕事には、必ず理由がある」ということ。
効率が求められる時と、そのプロセスが求められる時では方法が違う。
こみちのような中高年が、その年代らしい働き方をどう見つけたら良いのか。
何か若者世代の邪魔をしない方法で、これまでの経験を活かす方法があるといいのだが…。